ザ・戊辰研マガジン

2018年10月号 vol.12

燃える石に心燃やした「片寄平蔵」

2018年10月08日 09:41 by norippe

 スパリゾートハワイアンズと言えば誰もが知っている、福島県いわき市にあるリゾート施設です。以前の名前は常磐ハワイアンセンター。「フラガール」で一躍有名になったあの映画の中で、フラガールが特訓を受けて練習するシーンがあり、その特訓の場所に選ばれたのが、いわき市の隣町(古殿町)に廃校として存在していた宮本中学校の体育館です。私の女房の母校なのです。これは余計な話でした。
 常磐ハワイアンセンターが出来たきっかけは、常磐炭鉱の閉鎖により、職を失った炭鉱夫家族の生き残り策として、炭鉱の町にリゾート施設を作ることであります。苦労を重ね出来あがった施設は大繁盛。屋内プールは大勢の人で賑わい、また屋内ステージには有名芸能人を呼んでの歌謡ショーが盛んに行われました。私が若い頃行った時は、ブルーコメッツや舟木一夫など、当時一流の歌手のステージが満喫出来たのです。
 更に、プールサイドのステージではフラガールのハワイアンダンスショーなど、一日いても飽きのこない施設であります。

 いわき市の常磐地区は江戸時代、湯長谷藩が治めていた領地で、この地区から石炭の鉱脈が発見された事から常磐炭鉱の時代が始まりました。
 石炭が発見された場所は、福島県で唯一国宝と指定されている白水阿弥陀堂(内郷白水町)のすぐそばにある弥勒沢(みろくさわ)という場所です。この弥勒沢には炭鉱資料館(個人で開設)があり、石炭発見の場所や坑道入口など常磐炭鉱の歴史を知る事が出来ます。


資料館入口


資料館前にあるトロッコ


石炭採掘現場の復元

 常磐炭田とは、20世紀前半に福島県富岡町から茨城県日立市までに広がって存在した炭田です。夜ノ森と久慈川に挟まれた沿岸地域に立地しています。
「常磐」は、律令旧国名の「常陸国」と、明治旧国名の「磐城国」の頭文字を取って付けられた名称で、「常」は水戸藩に、「磐」は磐城平藩に相当する地域という事になります。

 さて、ここでは常磐炭鉱を発掘した人物「片寄平蔵」、幕末に生き、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼と同じ年に48歳という若さで死亡した「片寄平蔵」の話であります。



 片寄平蔵は1813年2月10日、石城郡大浦村大字大森(現いわき市四倉町)に生まれました。頭脳明晰で進歩的考えを持つ片寄平蔵はいわきで材木商を営んでいました。秋田に材木を買い付けに行った時、発見した桐の大木を幕府に献上して大変気に入られた事があり商売も大変繁盛していました。

 1855年6月、磐城平町の川で数個の黒い石を拾い、好奇心から火中に投じたところ、その黒い石が燃えたのです。平蔵は以前、江戸の石炭商・明石屋治右衛門から石炭について聞いた事があり、大いに興味を持ちました。
 また、黒船が浦賀沖に来航した時、当時の人々は驚きや興味でいっぱいでしたが、片寄平蔵の視点は一般人と異なり、黒船の動力源である蒸気に石炭が使われていることを知り、故郷で見つけた石炭が商売になるのではと考えたのです。

 平蔵は鉱脈を捜し求め探索を始めました。そしてついに、当時「湯長谷藩」領であった白水の弥勒沢で石炭鉱脈の露頭を探し当てる事に成功したのです。友人でもあった白水の里の庄屋である大越甚六の仲介で、湯長谷藩主の内藤家から石炭採掘の許可を受けたのです。
 商売上手な平蔵は、問屋を通すと利益が少なくなるので、自ら販売会社を立ち上げ、掘り出した石炭は馬で湯長谷藩領江名村の港から船で江戸に送られたのです。
幕府は品川に軍監繰練所をつくり、軍艦に必要な石炭を平蔵に注文したのです。御用石炭買い上げの命により、平蔵は選炭3000俵を上納し石炭御用達となりました。幕府の重要ポストにあった磐城平藩主安藤信正の力添えもあったのではないかとも言われています。
 この莫大な注文は、いわき地方の石炭業を活発にする大きなきっかけとなったのであります。
 ペリーが来航し横浜開港が決まった1859年、平蔵は外国奉行所に願い出て、横浜に、石炭販売所を設けたのです。開国と攘夷にゆれる幕末の時期に、外国貿易に身を挺して取り組み、横浜の町作りにも尽力した片寄平蔵を横浜の人達は「開港の恩人」として、平蔵を神として祭ったのです。

 しかし、片寄平蔵の人生はそう長くは続ませんでした。
 1860年、江戸城の桜田門外で井伊直弼が攘夷派に襲われ、命を奪われたその年の8月3日、平蔵が急死したのです。斬殺でした。
 現在の茨城県白浜の海岸で、乗馬中に暴漢に斬首され胴体のみの骸になってしまったのです。平蔵の外国へむけての事業拡張をこころよく思わない者たちがいたのです。
 片寄平蔵の死について。世に出回っている資料にはあまり出てこないですが、斬殺された事実に関しては、片寄平蔵の末裔が語る話ですから信憑性は高いです。

 平蔵の墓は地区の里山にありましたが、現在はいわき市平泉崎の光明寺に移っています。

 いわき市の近代を顧みるとき、この片寄平蔵そして石炭ぬきには語れません。

 戊辰戦争研究会のいわき集会史跡めぐりでは、時間の関係上この常磐炭鉱発祥の地「弥勒沢」は省いてしまいましたが、いわき市の歴史を語る上では重要な場所でしたので悔やまれます。もしいわきに来る機会がありましたら、是非立ち寄ってみて下さい。
 場所は白水阿弥陀堂を過ぎてトンネルをくぐるとすぐ右側になります。弥勒沢入口には片寄平蔵の大きな碑が建っています。また遊歩道もあります。


弥勒沢の案内図

 常磐線の湯本駅近くにある「石炭化石館」の入り口には、片寄平蔵の胸像が立っています。

【ここからは石炭輸送に貢献した常磐線の歴史のお話です。】

 1896年(明治29年)それまで船に頼っていた石炭の輸送ルートが、常磐線という鉄道を開通させた事で、物流に大幅な改革がもたらされたのです。効率的な石炭輸送が出来るよう、明治時代から複線化工事が施されました。常磐線は石炭輸送のほか、日立鉱山、日立製作所関連の人員・物資輸送を兼ね、戦前・戦後を通じて国内経済発展に欠かせない存在となっていったのです。

 1898年(明治31年)に岩沼駅まで全通した後は、東北本線のバイパスとして機能しました。常磐線の利点は東北本線と比べて海岸沿いを走るため、線路が平であることでした。蒸気機関車牽引の列車にとっては最大の利点でした。

 平駅(現在のいわき駅)までの複線化も早期に行われたこと、さらに、奥羽本線への直通列車設定も必要だった東北本線に比べ、ターゲットを上野と仙台以北との往来に絞れたことから、仙台駅以北に直通する旅客列車が常磐線を経由して走るようになり、1920年(大正9年)に経路特定区間制度が設定された時、日暮里-岩沼間が最初の設定区間の一つに指定されたのです。

 石炭輸送を目的とした急行貨物「ひたち号」が1964年(昭和39年)に開始されましたたが、その後まもなくエネルギー革命によって炭鉱が次々と閉山に追い込まれ、1973年(昭和48年)を最後に常磐線の当初の目的であった石炭輸送の役目は終わりを迎えたのです。

 旅客面では、1969年(昭和44年)10月に上野-平(現いわき駅)間に特急「ひたち」が運転を開始し、1985年(昭和60年)につくば市で開催された科学万博期間中は全国から訪れる観客の輸送を引き受けたのです。1987年(昭和62年)4月、当時20兆円の累積赤字を抱えていた国鉄が分割・民営化され、常磐線はJR東日本の一路線として再スタートを切ったのです。しかし、東北新幹線が開業されてからは、常磐線から仙台駅以北に直通する旅客列車が大幅に減り、東北本線のバイパスとしての存在意義が失われたことから、長らく設定されていた日暮里-岩沼間の経路特定区間制度は2001年(平成13年)に廃止されました。

 2011年の東日本大震災で大打撃を受けた常磐線でありましたが、懸命の復旧により福島県の富岡駅と浪江駅間を残し、ほぼ開通することが出来ました。富岡-浪江間は2020年3月までに開通する見込みとなっています。
 現在、特急はいわき駅止まりになっていますが、いわき以北の特急に関してはまだ白紙状態で、全線開通しても「特急スーパーひたち」が仙台まで走る姿はもう見られないかも知れません。


「スーパーひたち」の前に立つ戊辰戦争研究会の会員さん

(記者:関根)


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