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ザ・戊辰研マガジン

2018年10月号 vol.12

戊辰150年の会津に立つ「会津まつり集会」顛末記

2018年10月05日 09:37 by date
2018年10月05日 09:37 by date

 2018年は戊辰戦争から150年経つひとつの節目の年に当たります。その時代に西軍から侵略され廃塵になった会津若松の地に私たち・戊辰戦争研究会の会員が全国から集まり会津の地に立つということは、儀に死すとも不義には生きないという私たちのけじめだと考えます。
 今回は会津祭りに便乗して「会津まつり集会」として、2018年9月22日と23日の両日に会津若松市内を歩きました、その記録です。
(尚、記事はあくまで筆者個人の思いであり、参加した研究会の会員全員の総意ではありません。)

 9月22日の午後12時前に、会津若松駅前で大きな「會」の旗をもって郡山駅から電車に乗ってこられる、戊辰戦争研究会のメンバーを待っていましたら、テレビ局の取材カメラマンから「飯沼さんをお待ちですか?」なんて声をかけられました、お迎えの人と間違えたようです。その後に到着した飯沼一元さん(白虎隊の生き残りの飯沼貞吉さんのご子孫の方)が、私らに近づき挨拶されましたが「人違いです」と言いながらも私らも挨拶しました。そのあとに札幌から来られたご夫婦に声をかけられました、札幌市西区琴似にお住いの屯田兵のご子孫の方でした。琴似の屯田兵は伊達藩が半分会津藩が半分でした、ところが明治新政府は福島からの屯田兵参加を認めずに、下北・斗南の会津藩を青森出身として屯田兵に組み入れました。そんな歴史があるもんですからじっくりと話を聞きたかったのですが、研究会のメンバーの集合が気になりお相手できませんでした。
 会津若松駅前で「會」の大きな旗を持つと反響が大きいですね、初めて知りました。
次は大きな徳利をぶら下げてフラフラ歩けば、「小原庄助ですか?」と声かけられるかな?。

 午後12時に会津若松駅前で集合した研究会のメンバーは、会員が持ち出した車2台に分乗して東山街道・奴郎ヶ前にある「お秀茶屋」で昼食代わりの田楽をいただきました

写真にあるようにこれだけの量で田舎がいっぱいになりました、でもせっかくの名物です「クルミ餅」も注文して全員でいただきました、満腹です。
 「お秀茶屋」のある奴郎ヶ前の近くには河原があり、会津藩の処刑地があった場所です。そこで処刑される罪人に田楽と水を与えたそうです。一見美談のように思いますが残酷だと思います。私だったらお酒をいっぱい飲ませて酔わせて送りだすでしょう。(どちらにしても残酷には変わりありません)

「善龍寺」におじゃましました。
この善龍寺は会津戦争時に西の賊軍によって焼かれましたが、竜宮城のような山門は焼かれずに残りました。
 善龍寺には「なよたけの碑」があります、


 なよたけの句を詠んだのは会津娘子隊の中野竹子との勘違いが多いのですが、実際は会津藩家老西郷頼母の妻・西郷智恵子が読みました。西郷邸女子21人の自刃を主導した本人です。会津の女性は本当に強いしっかりとした芯を持つ人たちでした。そのような女性たちが会津にいたことに大きな誇りを持ちます。

 大龍寺を訪問しました。
ここは小倉藩主小笠原長時によって創建された桂山寺が祖で、会津戦争時に最初に小倉藩が占拠したことが幸いし、小倉藩兵に無事に保護され、そのために300年以上存立しています。
 大龍寺秘蔵の資料館「てくの坊」も案内いただき、会員一同熱心に拝見させていただきました。特にガラスケースの中には藩政時代の会津若松市内の地図があり、会津藩士鈴木丹下の子孫の方が当時の自宅を見つけ感激していました。

 住職夫妻にはお茶に呼ばれ茶菓子をいただき、大河ドラマ「八重の桜」時の逸話などを聞きました。


また秘蔵の「照姫」が乗った籠も見せていただき、会津戦争のさなかに殿の側室の妊婦を乗せて大龍寺で出産したという逸話もいただきました。
「照姫」の乗ったという籠です。

 大龍寺では有名な「幽霊の足跡」も見せていただきました。

 松平家墓所を訪問しました。
松平家墓所は会津・東山街道近くにありまして、駐車場から遠く更に写真にあるように案内板にある入口からさらに歩くということと、熊が出没するかもしれないということで遠慮させていただきました。

 ちなみに始祖の保科正之公の墓地は、猪苗代町の士津神社にあります。

 会津若松市七日町(なぬかまち)にある「阿弥陀寺」を訪問しました。
会津戦争時には会津藩士の遺体が放置されましたが、ここ阿弥陀寺と長命寺に千3百柱の遺体の埋葬が許されました、それでも明治2年のことです。
 阿弥陀寺は会津戦争で焼かれましたが、本堂の代わりとして、鶴ヶ城から「御三階」を移設して、昭和30年の本堂再建まで使われました。



会津若松市日進町にある「末廣酒造株式会社」を訪問しました。
店頭には大きな「杉玉」がありましたが、微妙な青さで、今年の杉玉かどうかはわかりませんでした。この「杉玉」で新酒ができたことを知らせるのです。

 末廣酒造では蔵内を巡るツァーに参加するはずでしたが、開始時間に間に合わず売店を散策するのみでした。

 末廣酒造の見学が初日の最後の訪問地です、この後は日帰り参加者を会津若松駅まで届けてます。
そのあとに今夜の宿泊地である湯野上温泉まで車を飛ばします、会津若松から湯野上温泉まで約40分の道のりです。

 今回の「会津まつり集会」の宿泊は、福島県下郷町の湯野上温泉「星乃井」です。
湯野上温泉の由来は大変古く奈良時代まで遡ります、大川渓谷の湧き湯を利用した温泉郷であり、現代ではJR「湯野上温泉駅」の駅舎は日本で唯一の茅葺き屋根です、しかも駅長は愛らしい猫さんです、その駅舎の中には囲炉裏があり冬季のみ火がたかれています(夏は暑いので必要ありません、というより迷惑です)
 そんな湯野上温泉ではつと「星乃井」は有名で、近隣の「大内宿」には無料で案内してくれますし、夕食後には「大内宿ナイトツァー」に連れて行ってくれます。
今回の私たち一行にも声が掛かりましたが、酔っ払いなので辞退しました。

 宴会場には福島県産の日本酒が並びます、私たちは端から端まで全部くださいと言いたいところですが、それほどお酒には強くありません。並んでいるお酒を飲まずして涙を呑んで諦めました。

 宴会の前には戊辰戦争研究会の勉強会です。
宿泊する会員全員が車座になりました、講師は猪苗代町で語り部のボランティアをなさっている鈴木様にお願いし、ご高説をいただきました。そして最後には鈴木さんのハーモニカに合わせて「高原列車は行くよ」を全員で合唱しました。まさか会津に来て合唱するとは思いませんでした。「高原列車は行くよ」は作詞作曲が福島県の人で舞台は猪苗代・沼尻です。
 福島を満喫したひと時でした。
 勉強会の後は宴会です。

 宴会時の写真です、アサヒスーパードライがキンキンに冷えていておいしかったです。

 宴会の後の楽しみは2次会です、私たちはミーハーではありませんのでカラオケはありません。

 2次会のお酒は当然に福島県のお酒で、かねてから会員から要望のあった「会津娘」です。
当初は、当日の訪問先の末廣酒造から日本酒1本を購入して宴会に臨むところだったのですが、蔵内ツァーに参加できなかった腹いせで末廣は購入しませんでした、そこで今回の集会の企画にご注進いただいた研究会会員の鹿目さんの希望通りに「会津娘」を飲むことになりました。つまみは会津歴史春秋社の社長さんから頂いた福島県三島町産のキノコの缶詰を提供しました。
 写真にあるように、派手さには欠けますが福島の山奥での宴会にぴったりです。今までこのようなつまみに在りついたことはあったでしょうか。
これぞ戊辰研です、研究会の本懐を見せたようです。
 でもこのキノコには大根おろしとお醤油が必要だったのでは・・・。

こうやって久しぶりの戊辰戦争研究会の史跡巡行の夜は更けていきます(ありきたりな言い回しですが・・)。

そして2日目になりました、9月23日です。
150年前の会津鶴ヶ城では1か月の籠城戦にピリオドをうち、開場となりました。
 2日か目の目玉はなんと言っても「藩公行列」です、私らは湯野上温泉を遅めに出発したために式典途中からの参加です。もちろん綾瀬はるかさんのステージも拝見しました。綾瀬はるかさんは私に微笑んでいたようです(たぶん)。
 写真は藩公行列の先頭グループです。「会津藩奴隊」が先頭です。

 娘子隊の隊列です。娘子隊はあまりにも可愛らしかったので近づいてシャッターを押しました。
でもあまり近づいてシャッターを押すと、私が最初の薙刀の犠牲者になりそうでした。

 写真は伊達藩のカラス組の隊列です、カラス組は縦横無尽に戦い白河の戦いや駒ヶ嶺の戦いでは、さんざん西軍に天誅を与えました。

酔っ払い記者 伊藤

 

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