ザ・戊辰研マガジン

2018年09月号 vol.11

戊辰研マガジン11号の表紙について

2018年09月04日 11:23 by norippe

 今回の表紙は京都黒谷金戒光明寺の会津藩主松平容保と新撰組を描いてみました。



【京都守護職本陣 黒谷金戒光明寺】

 幕末の文久二年(1862年)、徳川幕府は暗殺や強奪で治安が悪化した京都を守るため、新しい職制の京都守護職を作った。そして会津藩にその任務を当たらせたのだ。会津藩主松平容保はこの任命を幾度となく固辞したのだが、藩祖保科正之の家訓に順ずる事となり、薪を背負って火を防ぐがごとく京都守護職という過酷な任務に当たることになったのだ。
 文久二年12月24日会津藩主松平容保は約1,000名の家臣を率いて京都に入り、そして大勢の京都町衆の大歓迎に迎えられ、この京都守護職本陣となる黒谷金戒光明寺に到着したのである。
 この黒谷金戒光明寺は京都御所にも近く、さらに敷地も広大で、徳川家康が幕府を盤石なものにするため京都に力を注ぎ、二条城に所司代を置き、大軍の軍隊が配置出来る自然の要塞として黒谷を城構えとしたのだ。そんな理由でこの金戒光明寺が京都守護職の本陣として選ばれたのではないかと思われる。
 また、幕府が文久二年将軍上洛警備のため浪士組を結成したのが新撰組の始まりで、この会津藩の配下に置かれたのが新撰組であった。新選組は市中取締の命を受け、都大路を縦横無尽に走り廻り治安は目立って回復した。新選組は壬生に屯所を置き、黒谷本陣と行き来し報告伝達が行われたのである。


金戒光明寺の山門付近

黒谷金戒光明寺の山門を抜けしばらく行くと、会津墓地の所在を示す案内が立っている。墓地は、本堂からすこし離れた東北方向の端、西雲院の隣に位置している。鳥羽・伏見で戦死した藩士たちや係わりのある人々の墓である。朝敵呼ばわりされた会津藩の墓なので、境内の端に在って当然のことと思っていた。


会津墓地

 しかし、その西雲院は、金戒光明寺にとって最も重要な聖なる地に建つ御堂だった。その中に納められている紫雲石には、この地に住んだ法然上人がある日そこに腰掛けると、紫雲がたなびき異香が立ち込めたという伝承があった。つまりそこは、法然上人が何らかの啓示を受けた地だったのだ。そのため寺では、石の上に御堂を建て霊跡とした。

 
紫雲石と紫雲石が納められている御堂

 「会津墓地の近くに法然が紫雲を見たという紫雲石があるのは、不調和な気もするが、このような歴史の犠牲になった人たちこそを極楽往生させるのが法然の念仏の教えではなかったかと思うのである」と、梅原猛氏は、著作「京都発見〈五〉」の中で、「金戒光明寺の聖と俗」の章を結んでいる。


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