ザ・戊辰研マガジン

2018年09月号 vol.11

会津飯盛山白虎隊墓地とローマ碑

2018年09月04日 11:25 by norippe

 私は何度か飯盛山を訪れているが、最後に訪れたのは東日本大震災が発生した2年後の2013年6月、大河ドラマ「八重の桜」が始まり、鶴ヶ城決戦が放送されていた時だった。一緒に同行した友人は歴史にはまったく興味が無く、それでも私は友人を無理やり連れて史跡を歩きまわった。
 飯盛山の登り口には観光みやげ店が並び、坂の途中からはスロープコンベアが備えられていて歩かずして登ることが出来る。


スロープコンベア
 友人が、一番感動して喜んだのがこのスロープコンベアであった。まるで子供のようだ。(笑)
このスロープコンベアは、お金はあるが体力が無いという人には最適な有料設備である。お金が無い人はそのまま階段を登る事になるのだ。
その階段の登り口に白虎隊記念館があり、会津での戦いの遺品や写真・古文書などが展示してある。



白虎隊の墓
 階段を登りきると、整地されて開けた場所に辿り着く。まわりを木々に囲まれた白虎隊墓地である。墓地からは途切れる事のない線香の煙とかぐわしい香りが漂う。左奥が白虎隊の墓がある場所なのだが、反対の右側には何やら場違いではないかと思われる塔が建っているのだ。
 今回はこの白虎隊墓地に建つ塔についての話である。



ローマ碑と私

 この塔は「白虎隊の精神に感銘を受けた」としてローマのある人物が会津若松市に寄贈したものである。ある人物とは、イタリアの独裁者として知られたベニート・ムッソリーニ。そのムッソリーニがポンペイ遺跡の柱を記念碑として寄贈したのである。柱の上部には、ローマ軍の象徴である青銅の鷲が翼を広げて立っている。柱の前面には『文明の母なるローマは白虎隊士勇士の遺烈に不屈の敬意を捧げんがため、古代ローマの権威を表すファシスタ党章のマサカリを飾り、永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る。』と刻まれ、裏面には『武士道の精華に捧ぐ、ローマ元老院と市民より』と刻まれていたのだ。
 しかし第2次世界大戦後、会津若松に進駐したアメリカ駐留軍ニューヨーク部隊の命により、碑文は削り取られマサカリも取り除かれてしまったのだ。昭和60年1月、日伊協会の会員だった仙波亨氏が5年に渡って「イタリア碑」について調査をし、碑文の実物大の拓本コピーを入手。それを元に会津弔霊義会が多額の費用をかけて復元し現在に至っている。
 このイタリア記念碑が紆余屈折を経てこの白虎隊墓地に寄贈されたのであるが、それには「下位春吉」という人物がおおいに関わっていたのだ。


下位春吉

 時代は明治から大正に変わり、その大正も14年が過ぎた頃、会津戦争に参戦した山川健次郎や当時の会津若松の市長である松江豊寿が飯盛山を白虎隊の慰霊の地にしたいと情熱を燃やしていたのである。


山川健次郎


松江豊寿

 民間から多くの寄付を集め、山川自身も寄付金を捻出し、参拝しやすいように階段を整備した。そんなところに寝耳に水の話が舞い込んで来たのだ。
 日本とは同盟国のイタリア、そのイタリアの首相であるムッソリーニが白虎隊士の忠義に感動して、記念碑を贈りたいと言って来たのだ。と言っても、ムッソリーニ本人が言って来たわけではなく、福岡出身の「下位春吉」という人物が言って来たのだ。ではその下位春吉とは一体何者なのか。

 東京外国語大学卒業後に、ナポリの国立東洋学院大学に招聘された経歴を持つ人物だった。この時期の下位春吉は、ムッソリーニ、イタリア・ファシズム運動について数多くの本や論文を発 表しており、イタリア・ファシズムのスポークスマン的な存在であった。東京外国語学校でイタリア語を学んだ下位は、口演童話についての研究会を主宰し、『お噺の仕方』などの著書を発表していたが、1915年秋、ダンテ研究のため妻子を残して単身ナポリに向かうのである。ナポリにおいて下位は、王立東洋学院で日本語を教える一方、同地の文人と交際、さらに現代日本作家の作品を精力的に訳出紹介していた。しかし時はイタリアも参戦した欧州大戦の真っ最中である。そして下位はイタリア軍の前線へ義勇兵として参加するのである。
 また下位はムッソリーニとファシズム運動に感心を持ち、日本とイタリアを往来しながら、著書、論文、講演など様々な手段を通じて、イタリア・ファシズムについて日本国内で精力的に発信するようになるのである。そして下位が会津若松を訪れたことから、今回のローマ記念碑寄贈をめぐる混乱が始まったのである。

 大正14年(1925)、イタリアから日本へ帰国した下位春吉は、講演をしながら各地を巡回、2月11日、会津若松市に赴き松江市長と面談、イタリアの少年隊は白虎隊の事蹟に感激し、少年隊長ムッソリーニ氏の名に於て記念碑を寄贈することになっていると話したのである。そして松江市長の案内で飯盛山を訪ね調査をおこなったのだが、ここから会津市長松江豊寿氏の苦労が始まるのである。
 会津若松市長の松江豊寿といえば、第一次世界大戦中、徳島県鳴門市の板東俘虜収容所の所長を務め、博愛の精神のもと、自由で気風あふれる収容所運営がなされドイツ兵捕虜に対する温かい処遇を与えた事で名高い人物である。収容所内でドイツ兵捕虜によりベートーベンの「第九」を演奏させた事でも有名な人物である。
当時、白虎隊墳域を管理していた会津弔霊義会はこの墳域の拡張を計画しており、記念碑寄贈の話を好機会として、大正14年12月に起工、翌15年4月にはほぼ完成させた。
 この話を会津若松市に持ちかけて来たとき、新聞記者も数名同席していたが、下位氏はこの話は皇室に関することなので発表してはならないと記者に口止めし、明春、イタリアから日本へ帰った時に碑を携行すると言い残してイタリアに向けて出発したのである。

 その後、下位春吉からの連絡が無いので、松江豊寿は大正15年3月、下位春吉の弟と共にイタリア大使館で大使に面会を申出たが、大使は不在で会えず、通訳官に飯盛山白虎隊墳域の略図を渡し位置の適否を依頼している。松江氏は下位氏留守宅と連絡を保ち、下位氏の消息を明らかにする事に努めていたが、春吉より4月27日に加茂丸にて神戸に着き、5月2日帰宅したと連絡があった。直ちに下位氏に面談した松江氏に春吉は、碑の到着が遅れているのは、日本に贈る碑は当初の計画である首相から全国少年隊に代ったこと、もと元老院議員の記念碑建設委員長が奔走中で、未だ碑は完成していないが、6月のナポリ発の箱崎丸に搭載予定であり8月には神戸に到着予定だとこの時は言葉巧みに言い逃れているのである。
 松江氏は下位氏と同行しイタリア大使とも面談して、碑を贈られる好意を感謝し碑の場所を相談して、除幕式にイタ リアを代表して大使の参列を依頼している。大使は決定には時間が掛るので更に数回の相談の必要があり、もう外出の時刻が来たと週末の晩餐に招待して席を外した。松江氏は滞在日時の関係もあり招待を断り、それから大使館員と雑談してその時は別れたのである。しかし、松江氏はイタリア大使と面談する前に、碑の台石を寄付するという下位氏の親交ある岐阜の矢橋氏にいろいろ訊ねているが、確認できたのは下位氏から大理石寄付の申込はなかったということであった。この件で下位氏を追及すると、台石は大理石より会津産の天然石が最も適しており、発見出来次第、矢橋氏を伴って会津に行き選定すると言う話であった。この話を信じた松江氏は会津弔霊義会理事と石を探しにいっている。数個の石を見つけて通報して、碑の到着期日も迫っており、除幕式の事もあり、7月19日、松江氏は下位氏に面談のため上京した。ところが下位氏は地方講演のため会えず、イタリア大使も訪ねたが避暑のため不在で、通訳官と面談、イタリア皇太子の訪日について確認したところ、皇太后陛下崩御の為、訪日の計画は無くまた皇太子は学生のため外国旅行はどうだろうという否定的な話であった。期日の8月になってもイタリア碑は到着せず、この辺りでようやく松江氏は下位氏の言う事が信用できないことが判ってきたのである。その後、昭和2年になるまで下位氏と連絡が途絶えるのであった。

 下位春吉が大正15年11月にイタリアに向かった後、松江氏は下位夫人や春吉の弟に文通又は 面談をしたが要領を得ず時間だけが経過していったのである。そんな中、昭和2年3月になって下位春吉が神戸に着いていることを知り、碑の到着に付き用意すると共に違約の真相を確かめるため下位氏に電報にて連絡を取ったところ、下位氏より「金ナクテ受取ツテ来ヌ」の返電があったのだ。
 下位氏が神戸に着いて同地の新聞記者にした談話によると、白虎隊記念碑を持ち帰る筈であったが容積6トン程の記念碑を運ぶ運賃や引渡式を挙げる費用が壱千円ばかり掛るので、その調達に帰ったのであってまた6月末にイタリアに戻った上でないと日本に持って来られないという話であった。弔霊義会の松江氏は下位氏がすこぶる多忙を理由として面談出来なかったが、4月半ばに漸く会う事ができた。 その時の下位氏の答弁がふるっている。音信が取れなかったのはすこぶる多忙だったことと、イタリア出発前に、碑と鷲の写真をシベリア経由で発送、余の着京前に到着している筈なのに未だ着いておらず、その写真と共に詳細報告しようとした為で写真以外の書籍等も未だ到着なく困惑している。また余は元来金に不自由していないが、イタリアに行くのを知るや日本の名士よりイタリア首相に贈物として日本刀槍等種々な物を依託されその数が多く、送料を請求できないのでその金額も少なくない。碑を受取るには約八百円の金を要するが、余の為に常に物質的援助をしてくれる、千余の配下を有する下関の某に今回も資金援助を依頼していて、面談の上送金を得て碑を受領予定であり、加えてイタリア碑の受授には関係した人々を招待して謝意を表し晩餐を共にする招待客の名簿をも提示している。
 下位氏の話では、今回日本外務省の嘱託となり、かつローマ大学の講師となり金に不自由のない身なので金策の必要はなく、碑を送るため家族全部を率い7月に神戸を出帆、上手くいけば8月にナポリ出帆の船にて碑と大鷲を送ることが出来るとして、昭和2年7月、下位氏は家族連名にて松江氏に挨拶状を送りイタリアに出発してしまった。その後、期日に至っても碑の到着はなく、下位氏の消息もまた途絶えてしまったのである。

 昭和3年2月に旧会津藩士山川健次郎は外務大臣田中義一に「大正14年に紀念碑寄贈の話がもたらされてから4年経過、イタリア碑寄贈の話は、会津地方はもとより全国民一般特に青年間に多大の興味と期待を持たれ、追い詰められた状況になってきた。」と手紙を送っている。この時期、外務省もこのローマ市からの飯盛山白虎隊記念碑寄贈の話を調査していたのだ。
 昭和3年1月、イタリア大使松田道一は外務大臣田中義一に「在当地下位春吉ノ行為ニ関スル件」と題した機密公二号公文書を宛てたのである。内容は勿論、イタリア碑寄贈の真相についての内密調査依頼である。
 井上通訳官が日伊協会長「ベルトラメッリー」氏に確認したところ、この件については何も承知しておらず、事実無根の話であり、下位の買名的偽言と断定したのである。さらに先月30日同官が首相官房長「マメリー」に下位の話の真偽を確かめたところ、同官房長は「飛デモナキ事ナリ、察スルニ下位ノ 詐偽的言動ナルベシ、此点ハ大ニ明確ニ大使ヘモ伝達置キ願度シ本件ハ首相ノ名誉二モ関スル事ナレハ委曲首相ニ報告スベシ首相ハ大ニ不愉快ヲ感ズルナルベシ」云々と語ったのである。
 さらにローマ大学事務局より本大使宛に公文書にて、下位春吉は同大学の教授ではないことの通告と同人が大学教授である噂がある為、同人宛の郵便物が大学に多数配達され、はなはだ迷惑であることを訴え、当館に郵便物を返送してきたのだ。

 出渕外務次官は「本件に関する下位の行動がはなはだ無責任で諸方面に悪い影響を与えており、当方においてもとくと考慮を加えている次第である」とイタリアにいる松田特命全権大使に伝え、更には「本件が実現しなかった場合は、松江氏、山川氏、会津の人々には多大の迷惑がかかり、イタリアとの親善にも悪影響を及ぼすので、是が非でも本件実現に向け努力をして欲しい」と願い出たのである。そして努力の甲斐があって2月28日、外務次官より記念碑贈呈が決定した旨の話あった。その後9月12日、イタリア考古美術課長から井上通訳官に、記念碑に関すること細かな説明があり、25日の博物館庭園で行われた授受式の後、10月1日ナポリ出航の加茂丸にて記念碑の発送が確定したのである。

 ところが、ローマ合同電通25日発として9月26日の東京朝日新聞夕刊に「白虎隊の記念塔授受式終る」として電報記事が記載された。この記事には「授受式に下位春吉が日本を代表して記念柱を受取った」とあり、これに驚いたイタリア大使は「白虎隊頌徳記念柱授受に関する誤報是正方の件」として外務大臣宛に訂正を要求し、「このような偽りの報道通信がなされ、折角の日伊両国親善の発露として、また会津義霊会側の困難なる立場を救う為にイタリア側が奮発しての贈柱に対し、下位があたかも日本を代表して介立するがごときは、はなはだ誤った印象を与え、イタリア側に対し非常に面目なく遺憾である。」と稟請したのである。

 紆余曲折を経てようやく会津若松駅に着いた記念碑は、停車場から大町通りを通って飯盛山まで、各団体の奉仕と軍隊により運搬され、昭和3年12月1日にイタリア国寄贈白虎隊記念碑除幕式は宮殿下を迎えて盛大に行われたのである。ローマ市長の謝辞をイタリア大使が代読し、外務大臣田中義一、福島県知事加勢清雄らの祝辞のあと、会津側 代表として海軍少将子爵松平保男が謝辞を述べたのである。

 以上がローマ記念碑建立の顛末であるが、下位春吉という人物がいかにほら吹きでいい加減な人間であったことは間違いない。しかし、ローマ記念碑がこの白虎隊墓地に建ったきっかけは、この下位春吉のおかげであると言う事になるのだろうか。感謝すべきか否か?墓石の下で眠る白虎隊士は、どのような思いでいるのか知りたいところである。

 最後に、ただ一人飯盛山で生き残った白虎隊士の飯沼貞雄(貞吉)(当時76歳)が新聞に思いを寄せた記事がある。
「その当時の事はよく夢にさえ見る。また済まないとも思っている。その当時のことはよく想ひ出す。そして夢もよくみる。今まで生き永らえ色んなものを見聞きしたことを考えると死んだ連中に済まないようで寝ざめが悪いことがある。その当時の気持がそのただ主君のために死ぬというより外には何も考えなかった。今の子供達にそういふ決心ができるだろうか。それも教育によるのだろう。士に生れた自分達は幼少からそういう風にしつけられてきたから当時としては何も不思議なことでなかった。除幕式には是非出てこいと諸方からすすめられるし自分もまた白虎隊旧友の墓 には明治45年以来参拝していないからこの機会に是非行ってみたいと思うのだが何分からだがこんな風なので行けない」と述べている。

(記者:関根)

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