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2018年09月号 vol.11

桜宝寿のいろいろ感想、「禁門の変」

2018年09月02日 17:54 by moomin6001
2018年09月02日 17:54 by moomin6001

「西郷どん」第27回「禁門の変」      

   西郷、大活躍?  薩摩側から禁門の変(甲子戦争)を描くという珍しいドラマでした。吉之助はこれまでずっと、民政官をやっていて、民のことを第一に、ひたすら民の生活をよくするためにがんばってきたのですが(民主主義か!いや、当時の武士は主君のためにがんばるものでは。でも、ここまでは現在のドラマでは描きやすいですねぇ)、これからはひたすら敵を殺す側になるという(戦争ということはそういくことで)、その転換期がこの禁門の変だと知りました。そうしたのは久光で、ドラマ中、村田新八が深読みしていたように、久光は敵前、最前線に立つ吉之助の抹殺をねらったのか、そこまではいかずとも、人望のある吉之助なら家中の過激派も付いていくと考えたのかは不明ですが、吉之助の軍務官としての才能がここから開花します。というか、斉彬以来の洋式化・富国強兵政策で、薩摩藩の武器は他の藩よりもずっと殺傷能力があるわけで、このころから、「もはや戦さは槍や刀ではなく、最新鋭の武器」により決するということになるようです。

 桂小五郎も登場してきましたが、桂が長州の過激派を必死で止めようとしていたのは事実で、かなわなかった桂は戦さの後、出石へGO!になります。しかし、禁門の変の前に薩摩と長州が同士なら、薩長同盟締結にあれほど苦労しないわけで、本ドラマの今後の展開や如何に。

 図書館の貴重本庫に入る機会がありまして、幕末~昭和初期の本が普通に、整然と並んでいるのを見ました。寄贈本とのことですが、何しろ、100年前の古本が美しいので、司書さんたちの管理のご苦労がしのばれます。寄贈者は勤王派がお好きだったのか、志士さんたちの本がたくさんありました(皇国史観まっさかりの明治~昭和初期ですし)。  

 その中に「忠正公勤王事蹟」という防長史談会が明治44年に発行した本をみみつけました。拾い読みをしていますと、この後の幕末小説などのネタ本はこれなのかと感じました。池田屋に吉田稔麿はいたけど、桂はいなかったとか、薩長同盟でなかなか薩摩側が同盟の件を言い出さず、木戸が帰ろうとしたのを龍馬が止めた・・などなど。明治44年なので、幕末の志士たちが出世して、ご存命です。先ほどの薩長同盟の件は品川弥二郎が言うにはと、書かれています。品川は木戸とともに同盟の場所にいたので、生き証人ですが、木戸と事後に打ち合わせがあったのか、これそのものが品川の書いたシナリオなのか??今回のドラマは薩摩側から薩長同盟を描くでしょうから、最近出てきた薩摩側の資料で薩長同盟を描くのか、従来通りで描くのか、筆者としては楽しみです。  

 この本の中に8.18の政変で京都から追い出された長州藩士の山田顕義が薩賊を恨み、高崎正風を付け狙っていたという話が出てきます(山田は今の司法大臣で、とのこと。いいのか!)。山田は日大の創始者、高崎は追手門学院大の創始者なので、アメフトの試合は、日大VS関学ではなく、日大VS追手門でやればと思った次第。155年前は、そう遠い話ではありません。  

 来嶋の戦死を長州側の代表で、ドラマ化されていましたが、今回出てこなかった久坂・寺島・入江の最後の場面を「忠正公―」の中から記してみます(元治元年7月19日、彼らは鷹司邸にいます)。 「(略)久坂(原文は久阪)は御両殿様に対して申し訳がないから、寺島忠三郎と共に割腹して相果てると決心しましたが、今若殿様が御上京の御途中であるから、此の次第を御注進するものがないといかぬと云ふので、入江九一を読んで、我々は如何にも相済まぬことをした、今若殿様が御上りの途中であるから、京都の次第を御注進申し上げて、御留め申すように、吾々は割腹して申し訳をすると言ふと、入江は己れも死ぬると言ひましたが、其れでは後事を託する人がないと云ふて、久坂が留めましたので、入江は鷹司の穴門から出て、落ち延びると云ふ積りであった、其の時は非常な混雑で、小さな道に人数がごたごたして居る、其れを押し分けて、入江が外に出ると、槍で以て顔を突かれ、目玉が飛び出して死んで仕舞った(入江の首塚は京都 上善寺にあります。ここは、入江を討ち取った越前藩の京都菩提寺で、長州藩士たちの首級を葬りました)、

 そうして久坂と寺島は鷹司殿の御局口で割腹して死んださうです、此の事に付ては鷹司の中小姓で、兼田義和と云ふ人が久坂の遺骨を収めたと云ふことを、京都府で聞いたことがありますから、兼田の宅を訪ねました処、其の未亡人が言ふに、義和は亡くなりましたが、久坂さんのことは私が能く心得て居ります、アノ御方二人が御割腹に為った所は、御局口に違ひございませぬ、久坂さんは傷を受けて御居でなされて、御逃げなさることは出来ぬが、寺島さんは何も傷がないから、義和が是非御落し申さうと勧めましたが、イヤどうしても久坂と一緒に死ぬる義理合ひだから、最後を是非見届けて呉れと云ふことで、御局口で従容として御自害為された、其の内に火が懸ったから、義和は逃げましたが、鎮火の後に、久坂さんなどの自害した所に行ってみると、焼け残りの骨があったから、其の骨を壺に収め、一條寺に持って行って、葬ったと申すことでありました、それで御維新後に殉難者を霊山に改葬したのであるが、久坂と寺島の遺骨は一條寺から移したので、本物であるが、其の他は誰やら一向分かりませぬ(略)」

 一條寺は地名で、遺骨を葬ったお寺は詩仙堂です。兼田家の菩提寺だったとか。明治になって、霊山に改葬したのは、久坂の妻文(ふみ)の姉婿、梶取素彦だと聞きました。本書は明治44年の聞き書きです。兼田さんは亡くなっていましたが、何とか、未亡人に話を聞くことができて、久坂、寺島、入江の亡くなった状況が今に伝わります。先日、京都の霊明神社で久坂の法要、秋湖祭(秋湖は久坂の雅号)に参加して、禁門の変で亡くなった方々を偲んできました。来年も7月19日に法要を開催されるとのことです。

 慶喜の言動にまわりが振り回されていましたが、一番、運命に振り回されたのは、慶喜自身ですよねぇ。

 写真は京都御苑にある鷹司邸跡です。  現在、京都御苑は緑の美しい、広々とした公園になっていますが、154年前の7月19日は人でごった返していたことでしょう。

 蛤御門です。今では、いつも扉は開いています。  

 蛤御門の弾痕です。結構、数がありますよ。来嶋隊の活躍の場です。ここを守っていたのが会津藩です。  

 清水谷家跡です。このあたりで来嶋は戦死しました。

 禁裏御所の西側です。禁門の変の時は、激戦の舞台となりました。154年前、吉之助や半次郎もこの場所を駆けたことでしょう。

 御所の北西側にある乾門です。薩摩藩が守衛していたのはこの門です。

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