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ザ・戊辰研マガジン

2018年09月号 vol.11

【都内、幕末維新史跡・六】荒木町と小日向

2018年09月04日 11:27 by tange
2018年09月04日 11:27 by tange

 JR新宿駅から東へ向かう新宿通りは、四谷三丁目辺りで甲州街道と合流し、四谷見附を越え旧江戸城郭内に入り皇居半蔵門を目指す武蔵野台地尾根沿いの道路である。
 四谷三丁目の交差点を過ぎた直ぐの所で、「車力門(しゃりきもん)通り」とその先の「津の守坂(つのかみざか)通り」が北へ向かって下っている。二つの通りに挟まれた21,000坪ほどの地が、高須藩主・松平摂津守の上屋敷、四谷邸だった。現在、そこは新宿区荒木町と表示されている。 
 高須藩3万石は尾張藩の支藩で美濃国石津郡を国元としていた。しかし、高須藩は参勤交替が免除されていたので、藩主とその家族は国元で生活することは無かった。

 会津藩9代藩主・松平容保は、天保6年(1835)12月29日、この高須藩の上屋敷で10代当主・松平義建の七男として誕生した。義建は十男九女の子をもうけたが夭折した子も多く、成人したのは六男一女だった。その男子たちは、尾張徳川家の分家という家柄も相まって、諸方の大身から養子縁組を望まれた。
 幕末維新の時代に「高須四兄弟」と呼ばれ、それぞれ立場を違えながら歴史に名を残すのが次の四人である。
 ・徳川慶勝(二男) 尾張徳川家14・17代当主[新政府側]
 ・一橋茂栄(五男) 尾張徳川家15代当主、一橋家10代当主[徳川宗家側]
 ・松平容保(七男) 会津松平家 9代当主[旧幕府側]
 ・松平定敬(八男) 桑名松平家13代当主[旧幕府側]


車力門通り、金丸稲荷神社


 車力門通りの名称は、当時、物資がここを経由して四谷邸へ荷車で運び込まれていたことに由来している。
 現在その通りは、車力門横丁と呼ばれ、幅狭く少し北下がりの道となっている。その道を下っていくと、高須藩主の守護神であった金丸稲荷の小さな社に出合う。荒木公園の一画である。
 余談になるがこの公園に、日露戦争旅順の戦いで勝利し停戦条約締結の場となった水師営の庭に在ったナンテンの後を継ぐとされている樹が植わっている。真偽のほどは分からない。
 荒木公園・金丸稲荷の東側、細い道をさらに北へ進むとびっくりする。俄かに地面の傾斜が急になり、下へ下へと導かれるのである。市街地化された大名屋敷の跡は、整地され昔の地形の痕跡をとどめないのが普通だが、ここは違っている。苔むしたような石による段の通路が、幾筋にも分かれ、曲がりくねってあるのだ。その周りには住宅や料亭がびっしりと立ち並んでいる。
 四谷邸の地形で一番低かったと思われるところに辿り着くと、そこには小さな池が在り、かたわらに弁財天が祭られていた。策(むち)の池と津の守(つのかみ)弁財天である。往時はもっと大きな池で、二間半ほど上の策の井から澄んだ水が落ちて滝となっていた。その井戸は江戸八井の一つとされ、美味しい水が湧きでていた。その滝壺だけが残されたのである。今は、滝の落ち口辺りにマンションが建ち陽をさえぎり、池も泥水で満たされ、その中を褐色の鯉と亀が動いていて不気味だった。とても、ここが大名屋敷の庭園跡とは思えなかった。


策の池と津の守弁財天


 「元治元年(1864)増補改正の四ツ谷絵図」によると、四谷邸の表門は津の守坂通りに面していた。ちなみに津の守坂と津の守弁財天は、藩主・松平摂津守の‘津守’からの名称である。
 広い道路として整備された津の守坂通りを下ると直ぐ靖国通りに出る。その通りを越えた広大な地が、現在、防衛省と自衛隊市ヶ谷駐屯地になっている。そして、そこは尾張藩上屋敷の跡でもある。その支藩だった高須藩の四谷邸は、当然のことかもしれないが、尾張藩邸の直ぐ傍に在ったのだ。
 正門を警備する自衛隊員に尾張藩上屋敷を示す史跡などないかと尋ねたが、言下に何も無いと言われた。


津の守坂通り(鉄塔は防衛省・尾張藩上屋敷跡)


 松平容保の誕生の地を訪れた後 その終焉の地を探していた。
 容保は、明治元年(1868)9月22日、会津若松城を開城し降伏した。その後、鳥取藩に預けられ、さらに和歌山での幽閉を経て、4年に東京へ戻される。そして翌年1月、朝廷に逆らったとしての刑、蟄居を許されるのである。
 容保の年表において、京都守護職と会津戊辰戦争についての記述は詳細を極めているが、彼の晩年から終焉までについては希薄である。
 ある年表によれば、東京小石川の屋敷で没したとされている。
 明治13年発行の東京府管内全図によると、城の北西かなり広い範囲が小石川区とされていた。その結果、旧水戸藩上屋敷の庭園は小石川後楽園と呼ばれ、そことは武蔵野台地の尾根を走る春日通りを挟んだ反対側の下方に小石川植物園が在る。いずれも、現在の町名は小石川ではない。
 小石川の屋敷というだけでは、あまりにも漠として、容保の終焉の地を特定できないでいた。

 「文京ふるさと歴史館だより」という文京区発行の冊子がある。その第14号に「文京の坂道―新坂と荒木坂―」という記事を見つけた。
 そこに、徳川慶喜邸東側の坂が新坂(別称、今井坂)であり、荒木坂の上が松平容保邸と記されていた。同冊子に併載された「東京市小石川区全図(明治31年)の部分加工図」に両邸が明示されている。容保邸は、二つの坂の位置を根拠にして、慶喜邸から直線距離で100mほど西の小日向1丁目(旧小石川区第六天町8番地)に在ったことが分かった。

 この荒木坂と容保誕生の地、荒木町と何か係わりがあるのか、少し気になるところである。荒木坂は、坂上の地が荒木志摩守の屋敷だったから付けられた名で、江戸の時からそう呼ばれていた。誕生の地が荒木町と今呼ばれ、終焉の地が荒木坂上なのは全くの偶然であろう。

 明治10年に容保がこの地へ移り住んだ事情は明らかにされていない。慶喜が同じ小日向を終焉の地としたのは、生誕の地である水戸藩上屋敷の近くだったからと考えられている。慶喜より以前にその高台に居を構えた容保も、同じことを考えたのではないだろうか。
 明治の頃、容保の小日向屋敷から高須藩上屋敷跡が見えていたとは考えにくいが、地図上で確認する限り、そう遠くなかったことも事実である。晩年の彼は、時々自邸から、子供時代を過ごした方へ目を凝らしていたのかもしれない。


荒木坂、坂上が松平容保邸跡          新坂(今井坂)、左側が徳川慶喜邸跡



 再び、小日向を訪れた。
 慶喜邸正面玄関前の大銀杏から新坂を下り、神田上水を暗渠とした道路(通称、水道通り)を右に進み、称名寺手前を再び右折して荒木坂を上がると容保邸正門の位置に達する。二つの屋敷は、徒歩4分ほどのごく近い距離に在った。
 旧容保邸の一部は、現在、都住宅供給公社の共同住宅になっているが、史跡を示すものは何も無い。
 明治26年12月5日、松平容保、小石川区第六天町の屋敷で逝去。享年59。
 慶喜が小日向に移るのは34年なので、両者に近隣の付き合いは無かった。しかし、戊辰1月6日、同じ船で大坂から江戸へ逃げ帰った二人が、それぞれ異なる時を経て、小日向の同じ第六天町で晩年を過ごしていたのは、偶然とはいえ運命のいたずらを感じるのである。


松平容保、終焉の地


 容保は、明治13年、日光東照宮の宮司という顕職を得るが、実際の役儀は人にまかせ屋敷をほとんど出ることなく過ごしていたという。
 会津戊辰戦争における三千余りの戦死者に思いを馳せていたのであろうか。
 さらに、一万七千人にも及ぶ藩士と家族が本州北端の地、斗南で艱難辛苦のなかを生き抜かねばならなかったことに、済まないと感じていたのかもしれない。
 松平容保の人生において、「荒木町」とその近く「小日向」とのあいだに、‘会津’と‘京都’があった。  
 (鈴木 晋)


(次回は、谷中霊園と野田豁通についてです)

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