ザ・戊辰研マガジン

2018年07月号 Vol.9

歴史オンチの関東史跡めぐりー1 飯能戦争と渋沢平九郎(1)

2018年07月05日 21:44 by kohkawa3

1.ハイキングで出会った渋沢平九郎

◆渋沢平九郎自刃の碑

 慶応4年の戊辰戦争のさ中、飯能市(埼玉県)が舞台となった飯能戦争があった。戊辰戦争の一地方戦である。
 私が飯能戦争を知ったのはつい数年前、ハイキングで顔振峠(こうぶりとうげ)に行った時である。西武池袋線で「飯能駅」から20数分のところ「吾野(あがの)駅」(飯能市)で下車、1時間ほど歩けば標高500mの顔振峠である。顔振峠を越えて越生(おごせ)町の黒山三滝方面に下った所に「渋沢平九郎自刃之地」という碑があった。
 かたわらの案内板では、戊辰戦争と飯能戦争そして渋沢平九郎について解説していた。その頃の私の歴史認識は関ヶ原あたりで止まっていた。戊辰戦争もぼんやりとしか記憶にない。まして、飯能戦争となると聞いたこともない。「なるほど、そうなの・・・」と通り過ぎた。
 その後、日光へのハイキングでも板垣退助の銅像や大鳥圭介と「戊辰の道」などの史跡を見る機会があり、戊辰戦争についての興味が湧いてきた。そんなわけで、飯能戦争の史跡や渋沢平九郎のたどった道などを歩いてみたくなった。
 飯能市は奥武蔵のハイキングで馴染がある。手持ちの国土地理院2万五千分の一地形図「飯能」「越生」「原市場」「正丸峠」を登山地図のファイルから取り出し貼り合わせてみた。飯能市中心部から顔振峠、黒山、さらに奥武蔵の山々をカバーする。


渋沢平九郎自刃之地(越生町黒山)


◆振武軍の本営・能仁寺と天覧山を歩く

 6月30日土曜日、前日には早々と梅雨があけ、猛暑予報が出されるなか飯能市を訪ねた。
 飯能戦争に関しては市立博物館発行「飯能戦争関係資料集」(B5版100頁)という網羅的な資料があるようだが完売となっていた。また、渋沢平九郎を扱った書籍も図書館で検索できた。
 今日一日、博物館と図書館で資料をあたりながら、振武軍(旧幕府軍)が本営を置いたという能仁寺と、その寺の後ろにひかえる天覧山を歩くことにした。天覧山は飯能市の北西に位置し、博物館や図書館もその周辺にある。
 飯能駅からバスで数分、「天覧山下」というバス停で下車すると目の前が市立博物館である。飯能市は標高100mほどの飯能駅の北側に市街地が開け、間近に奥武蔵の山々を望む起伏のある地形となっている。
 バス停から見ると市立博物館のある中央公園からつながるように標高197mの天覧山がもっこりと盛り上がっている。
 まずは、ゆるい坂道を登り、真新しい建物の博物館に向かう。やけに静だと思ったら「資料のくん蒸消毒及び電気工事」のため前後数日間休館であった。
 こんなこともあると気を取り直し、図書館に向かう前に目の前の能仁寺と天覧山を片付けることにした。
 天覧山を目印に歩き出すとすぐ、ふもとに能仁寺の山門が見えてくる。猛暑の中、日当たりの良い寺には人影も少なく、飯能戦争の案内板をデジカメに収めてすぐ寺を後にした。
 能仁寺のわきに天覧山への登り口があった。午後1時過ぎ、暑さはピークに達していたが、歩き出すと木陰の道で涼しさを感じた。標高差約70mを登りきると、頂上の展望台からは飯能の町が見渡せ、その先に池袋や新宿あたりのビル群が大きく見えた。標高は低いが、奥武蔵の山から続く傾斜地に立地するので、斜面を見下ろす形になる。見晴らしはすばらしい。
 能仁寺に拠点を置いた振武軍は、天覧山を物見櫓に使ったそうだが、江戸方面から3000の官軍がじわじわと攻め寄せてくる様子が手にとるようにわかったであろう。恐ろしい。
 天覧山を下って、図書館に向かう。地図で見るとすぐ近くのはずである。猛烈な日差しとコンクリートの照り返しでくらくらする。図書館の冷房が恋しい。
 小学校やら体育館やら紛らわしい建物にまどわされ、しばらく歩き回ってようやく見つけると、図書館は「館内整理」で休館日であった。しかも、2週間の休館は今日までで、明日から開館ということであった。予想外の事態に図書館の入口で呆然とたたずむのであった。
 飯能戦争の跡をたどり、渋沢平九郎の足跡をたどる第一歩は、さんざんな一日であった。

◆飯能戦争に散った渋沢平九郎

 能仁寺境内に飯能戦争について要領よくまとめられた案内板があった。以下のようである。
『 慶応四年(1868)年正月の鳥羽・伏見の戦いで敗れ、「朝敵」となって江戸に戻った徳川慶喜、上野の寛永寺に謹慎した。一橋家の家臣を中心とする旧幕臣たちは、主君の汚名をそそがんと「彰義隊」を結成し、上野の山に入った。しかし彰義隊の頭取であった渋沢成一郎は、副頭取の天野八郎らと対立し上野を去り、五月初旬に田無村(西東京市)で「振武軍」を結成する。300人ほどとなった振武軍は、田無で周辺の村々から四千両を超える軍資金を調達し、箱根ヶ崎村に移った。その後、新政府方の攻撃を受けた彰義隊の援軍に江戸へ向かったが間に合わず、田無で上野戦争の残党などと合流して、5月18日飯能の町に現れた。振武軍など旧幕府方は、能仁寺を本営に、智観寺、広渡寺、観音寺など六つの寺に駐屯した。
 一方、明治新政府は、福岡・久留米・大村・佐土原・岡山の五つの藩に旧幕府方の追討を命じ、これらの藩兵は5月22日扇町屋(入間市)に入った。そして翌23日未明、笹井河原(狭山市)で旧幕府方と佐土原藩兵が遭遇して戦争が始まり、午前6時頃には飯能の町も戦場となった。この結果、200軒の民家と能仁寺、智観寺などの四つの寺が消失し、飯能を舞台にした戊辰戦争(飯能戦争)は、わずか半日ほどで新政府方の勝利に終わった。 』(能仁寺案内板「飯能戦争」)
 敗れた振武軍は散り散りに敗走、その中に渋沢平九郎の姿もあった。
『・・・振武軍(幕軍)は奥武蔵山中に敗走した。副将として参加していた渋沢栄一の養子である渋沢平九郎は、顔振峠を経て黒山へ逃れてきたが、待ちかまえていた官軍に包囲され、22歳の若さで自刃した。ここに平九郎グミと呼ばれるグミの木があり、平九郎の血を宿しているという。』(渋沢平九郎自刃之地案内板「渋沢平九郎」環境庁・埼玉県)とあった。
  (大川 和良)


天覧山と能仁寺山門


武陽山 能仁寺山門


猛暑の中、天覧山の木陰を歩く


天覧山山頂からの展望、かなたに都心のビル群が見える





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