ザ・戊辰研マガジン

2018年07月号 Vol.9

天誅組と桜井 中山忠光の隠れ家

2018年06月28日 20:57 by tama1

 〔天誅組と桜井〕最大のクライマックスといえる中山忠光以下7名の桜井(三輪山)脱出劇を取り上げてみたいと思います。 この項、一番詳しい、久保田辰彦氏著 【いはゆる天誅組の大和義挙の研究】によると、9/26午後四時ごろ、藤堂藩散隊町井台水の一隊が慈恩寺の湯豆腐屋で前田、関両人を倒した頃(前に書いた)、 中山忠光等の一行七人は、 それより程遠からぬ三輪山の麓、山崎の茶寮に隠れて居た。 こゝは慈恩寺より金屋に通ずる縣道の中間、縣道より一寸登ったところにあって、湯豆腐屋より五六町に過ぎず(一町=約109m) 三輪の油新事今西氏の別荘で、別荘番は脇本の辰巳彌七であったとある。 慈恩寺より金屋に通ずる縣道の中間、縣道より少し登った所・・・・・ 惨劇の湯豆腐屋から500m余りの椿山の標識を右に入り少し登る。 椿山の標識の向かい側には『三輪の里』の案内標がある。 凡そ150mぐらい登った所にある「三輪の里デイサ-ビスセンタ-」の辺りに油新(三輪の豪商)西新右衛門の別荘あるいは農作業小屋というものがあったという。

 

久保田辰彦著【いはゆる天誅組の大和義挙の研究】のP432に挿入されている上の写真を今西家の菩提寺である心念寺のご住職(昨年死去)に見せると、 「そうそうこんな感じであった」と大層な驚きで仰って下さいました。

尚、場所についても、ご住職が椿山の山麓で今の老人ホ-ムの辺りだと・・教えて下さいました。 それにしても、津藩の町井が前田、関の両氏を撃ち倒し(午後四時頃)その時捕縛した、下僕の多吉を直ぐに拷窮したならば、 恐らく忠光等の一行も、また町井をして名を為さしむることゝなったかも知れず・・・ それほどきわどい運命のいたずらと云えるかも知れない。 三輪の里から東を観ると前田繁馬と関為之進が眠る、朝倉の共同墓地が見える。 口碑の傳ふるところによると、當時宇陀の松山から、慈恩寺の農家に奉公して居た森岡力松(後勘兵衛といった)なるもの、 山畑で耕作中、忠光等の一行が突然、三輪山中から現れ、食を求めるより、力松は持合わせの辧當を興へ、 一時水車小屋に休ませ、辰巳の番せる寮に案内したので、寮に着くや、屋根裡に畳を敷かせ、 大将忠光は正座に、坊主風の男その側に侍し、入口には抜刀のもの二人立番したとある。 ★そして、夜10~11時頃この別荘を出て脱出 となるが、それについては森岡力松の【口実書】を次回に追ってみたい。 その前に三輪の豪商今西新右衛門について!!書いておきます。

現在の今西酒造店です。現当主さんは二十代の今西将之さんといいます。 私は、昨年の取材で、お祖母さんにお会いし 今西家の系図まで拝見させていただきました。 それによると弥右衛門、新右衛門の兄弟で 弟の新右衛門さんは今の酒店の前一帯の広い敷地で油屋を商いしていたとのことでした。 残念ながら新右衛門さんの系図は現在、途絶えており、今の今西酒造店は弥右衛門さんの系図となっています。 お祖母さん、将之さんともに、今西家が忠光一行と関わったことなど初めて知りましたとビックリされていました。 現当主の将之さんからは、後日電話をいただきお話をさせていただきました。 天誅組フアンの皆様、桜井、三輪にお越しの際は、三輪明神(大神神社)の一の鳥居の側 の高田屋(現池田宅)と向かい側の竹田屋(現三輪の茶屋跡)そして、この近所にある 今西酒造店には是非お立ち寄り下さい。

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