ザ・戊辰研マガジン

2018年07月号 Vol.9

東京・世田谷散策

2018年06月28日 11:16 by hidamarikun

『この二人は…因縁なのか!?』

松陰神社
主祭神 吉田寅次郎藤原矩方命(=吉田松陰)
鎮座地 長州藩主の別邸跡地



松陰が安政の大獄で刑死した4年後の1863年
高杉晋作など松陰の門人によって小塚原の回向院にあった松陰の墓が改葬された。
1882年(明治15年)11月21日、門下の人々によって墓の側に松陰を祀る神社が創建
現在の社殿は1927年から1928年にかけて造営されたものである。





神紋は、松陰の家紋である「五瓜に卍(ごかにまんじ)」紋。
※脱藩後の偽名の瓜内万二(かのうちまんじ)は、この家紋からきているらしい。
※石燈籠は、手前から6,7,8のものです。(伊藤博文、山縣有朋、井上馨が奉献)





 

松陰神社から15分の距離に…
大老・井伊直弼のお墓がある。





『慈悲深い名君』こと井伊直弼とは?

1815年 彦根藩主・井伊直中(なおなか)の14男として生まれる。
彦根藩は徳川家康の重臣・井伊直政が藩祖で、35万石という譜代大名の中で最大の領地を持つ名門の家柄でした。しかし、直弼は14男であり、しかも側室の子であったため、藩主の地位を継ぐ立場にはなく、300俵の捨扶持をあてがわれ、「部屋住み」として長く(17~32歳まで)雌伏の時を過ごしています。

※部屋住みとは、生活に困らない程度の収入を与えられるもので、役目も仕事も任されず、もしも兄が子を成さずに死んでしまった場合に、家を継げるようにするためのスペアとして飼い殺されていた存在のことを言う。

1846年、1850年に相次いで兄を無くし、15代目の彦根藩主となる。(36歳)
藩政の改革を継続し、領民に対して15万両という多額の資金を配布する措置を取り、高い評価を得るようになります。
自ら領民たちの声に耳を傾け、現実に即した実効性の高い政策を取ったことで、領地は順調に発展していったようですが、幕末の政情に関わることで、幕府の衰退を加速させることとなる…

長いのでこっからは簡単に…

ペリー来航以降、外国船が来航するようになると、幕府は欧米列強への危機意識を高めていきました。それに伴い日米和親条約が結ばれ、1858年には日米修好通商条約が締結された。しかしこれらは日本にとっては実に不利な条約でした。
さらに、
12代将軍・家慶の死後に後継者問題にさらされており、一橋慶喜を推す水戸派と徳川慶福(後の家茂)を推す南紀派の対立が激化します。
南紀派の直弼は大老に就任し、次の将軍を慶福に定めたため水戸派の反発が高まった
日米修好通商条約を天皇の許諾(勅許)なしに締結することにした。(独断で調印とされてきたが、ちがうっぽいよ…)
様々な状況の中、直弼を糾弾する声は高まり水戸派を中心とした尊王攘夷一派は天皇に働きかけて幕府を非難する密勅まで出させました。
また、朝廷が政治に口出しするということになり、直弼はやむなく厳しい手に打って出ることとなった。その結果、吉田松陰をはじめ多くの志士を投獄・処刑し、水戸派の重鎮を謹慎処分にしました。
(=安政の大獄を指す)

このことがあり1860年3月の大雪の日…
水戸浪士17人と薩摩藩士1人が、江戸城桜田門外で彦根藩の行列に襲いかかり殺害、斬首。(=桜田門外の変)

ということで




ここ、豪徳寺

「宗観院柳暁覚翁大居士」。直弼の戒名です。これは安政2年(1855)、直弼が江戸出府にあたり、自ら選んで、菩提寺に奉納したものでした。幕政に関わる以上、捨て身で臨む覚悟を直弼は3年も前に固めていたらしい。





※また、ここは、招き猫の発祥地のようで、これについてはまたの機会に書く予定です。

(記者:酒井)

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