ザ・戊辰研マガジン

2018年07月号 Vol.9

高島平

2018年07月04日 11:08 by tange

 昭和2年、上野と浅草のあいだに日本で初めての地下鉄が開通した。その後、特に終戦以降、地下鉄の敷設は都内全域に拡がる。現在では、東京メトロ9路線と都営4路線が網の目状に運行されている。
 一般的に言って、公共交通である地下鉄の駅名や路線名に人名が採用されることは、あまり多くない。都内では、徳川家康の側近であった服部半蔵縁りの「半蔵門」や大名で茶人であった織田有楽斎の「有楽町」などの駅名と路線名がある。
 JR目黒駅を起点とした都営地下鉄三田線の終着辺りに、「高島平」、「新高島平」、「西高島平(終点)」という三駅が存在している。
 この三駅は、幕末、西洋砲術の指南と伝播に尽くした高島秋帆(たかしましゅうはん)にちなんで命名されている。
 高島秋帆は、寛政10年(1798)、九州長崎に生まれる。出島でオランダ人から西洋兵学を学び、天保6年(1835)頃までに高島流砲術を確立し、幕府へ西洋式の兵制を採用すべしとの建白書を提出している。
 その後幕府に招喚された秋帆は、天保12年(1841)5月、江戸城西北の郊外徳丸ヶ原と呼ばれた地で、100人余の門人を指揮し我国初めての大規模な洋式砲兵隊操練を行った。
 この地は、城からも遠く離れず、充分な広さがあり、荒川南岸の低地で周囲に対してやや窪地になっていて、人家もほとんど無かった。主に江戸城周辺に住む幕臣たちに公開される砲兵隊操練には、きわめて適した地だった。つまり、砲術調練に適した地形だったことに加え、幕臣たちが観覧に通うためにも大変便利な場所だった。
 この砲兵隊操練に伊豆韮山の代官・江川英龍は、それまでに秋帆の門人になっていた江川家の手代以下8名を参加させ、自らも幕府の許しを得て観覧した。
 秋帆は、この後、幕府内で勢力を増してきた蘭学排斥派によって弾圧を受け獄に繋がれるが、ペリー来航の嘉永6年(1853)に赦免され、英龍の下に身を寄せている。英龍が没する安政2年(1855)までの短い年月、二人は親しく接し、近代日本の姿を熱く語り合っていたのであろう。その安政2年に秋帆は幕臣となり、後に講武所師範役を務める。
 高島秋帆は、慶応2年(1866)1月、戊辰戦争勃発の二年前に永眠する。享年69。
 高島平駅北側直ぐの徳丸ヶ原公園内一画に、秋帆の業績を顕彰する「徳丸原遺跡の碑」がひっそりと在る。大正11年(1922)6月に立てられている。


  徳丸原遺跡の碑(徳丸ヶ原公園内)

 徳丸ヶ原は、明治以降、東京の人口増加に応えて水田を主とした農地として本格的に開発される。ここが荒川南岸の低地であったことで水利に恵まれ、水田として利用するのに適していたのだ。
 昭和40年代初めから日本住宅公団は、東京圏の住宅事情改善のため、この徳丸ヶ原の広大な農地を取得し、街路を縦横に走らせ高層住宅群を実現する。完成した住宅団地は、総戸数11,000戸(最高階数14階)という我が国最大の規模となった。
 先に記した『主に江戸城周辺に住む幕臣たちが、観覧に通うためにも大変便利な場所だった』が、まさに、この地が巨大な住宅団地となった理由である。つまり、都心(江戸城)近傍の職場へ通勤するサラリーマンが住まうために極めて便利だった。この地と都心が地下鉄で結ばれ、ここに住む多数の第三次産業従事者が短時間で職場へ通うことができた。


  高島平住宅団地


 日本住宅公団は、この団地の名称について、「徳丸ヶ原団地」や「希望平団地」などを最終候補として検討していた。
 しかし、その検討メンバーのなかに、この地で幕末に高島秋帆が我国初の大規模な西洋砲術の調練を行ったことに強くこだわった人がいた。
 徳丸ヶ原に建設された住宅団地は、「高島平団地」と命名される。
 その団地名が由来となって、昭和44年3月1日、高島平1丁目~9丁目までの町が誕生し、それにともない延伸してきた地下鉄に「高島」と付く三駅が設けられたのである。
 一人の幕末史に対する素養が、近代日本の黎明の一時点をここに留めることになった。

(鈴木 晋)


  高島平住宅団地



(次回は、徳川慶喜終焉の地、小日向です)

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