ザ・戊辰研マガジン

2018年06月号 vol.8

念願の天誅窟探訪記

2018年05月25日 18:02 by tama1

とうとう念願の【天誅窟】へいって来ましたよ!! というより、正確には無理を言って私達夫婦が連れていって貰ったというほう が正しいでしょう。 内倉さん、舟久保さん本当にありがとうございました。 多分もう行けることはないでしょうが、大袈裟ではなく、冥土の土産になったし、この歳でよくぞ登れたなと感慨無量です。さて、先ずは【天誅窟】 って何? 文久3年9月23日夕方頃、天誅組は敗走を重ねながら川上郷伯母谷村へやって来た。現在の川上村伯母谷である。 このとき、天誅組は傷病者が多く、これ以上先に進めない状態の者が12人もいた。庄屋達は、彼らの世話をするにあたり、伯母谷村が9人、 上谷村が3人を引き受けたが、追討軍の探索から匿うのになみなみならぬ苦労をした。 始めは石窪新七郎宅やその他の家に分宿させていたが、藤堂勢などの追求が厳しくなり、猪山平という山中の山小屋に彼らを移した。村の庄屋 や年寄役が交代でつきっきりの世話をし、上谷村に身を寄せていた乾十郎は夜ごと出かけて診療にあたった。 その甲斐あって隊士たちは回復し、それぞれ本隊の後を追って行ったが小川佐吉だけは高熱のために動くことが出来なかった。 そのうち探索の手は家宅だけに留まらず山林や山小屋に及んできたため小川と乾を地元の人々が、「大塔様」とよぶ大岩の岩窟に移した。 絶対に炊飯等の煙を出さないよう気を使い、食事その他を村から運ぶ手の尽くしようであった。 小川が回復して村を離れたのは翌年の正月上旬で、村に来てから3ヶ月余りが経っていた。小川・乾等は村を離れる時、世話になった礼として 太刀一振り、小隊の旗一流、冠物金具一個、鉄扇一本をおいていった。 しかし、天誅組隊士を匿ったことが、奈良奉行所に知られ、役人が柏木村まで来て、同村松雲寺へ上田伊左衛門・水本茂十郎・石窪新七郎と 上谷村庄屋中谷吉左衛門の4人を呼び出した。 厳しく詰問されたが、皆一切口を割らず難を逃れたといわれる。  舟久保 藍氏著 の 『天誅組マル秘史跡 天誅窟』より

10/10AM9:30大淀町役場駐車場を出発169号線を走って奈良交通伯母谷バス停を右に細い山道を走りほぼすぐのところの伯母谷村 駐車場(?)に到着10:30サア-行くぞの前に装備を確認。 車の左後ろ側の石段を登るところからスタ-ト AM:10:35 水本家の裏側を通り、いよいよ山道に入る。隣家の上田家ともども忠光以下天誅組に対し多大の貢献をした両家ですが、現在、普段は誰も住んでいません。 しかしいつ帰られているのか、いつも綺麗にされている様子が見て取れます。 先頭は命綱を用意してくれた内倉さん。私達夫婦をはさんで最後尾から舟久保さんがガ-ドしてくれています。 鹿の足跡がクッキリ見えました。 そしてほどなくの所に神武天皇・天照大神そして明治天皇の遥拝所ありました。

そして小さい橋を渡ってこの道標看板を見たら右下へ遮二無二、沢へ下ります。  実はここまでは楽なハイキング気分でルンルンでした。 一転して沢に向かって下るあたりから大変!! 急斜面につかまる所も少なく、スベルは怖いは道なき道をカニ歩き・・・ 内倉さん所有の命綱のお世話になります。

沢を越えると今度はこれもお二人が以前に括り付けておいたピンクのビニ-ルテ-プ状のヒモを目指して 崖や斜面をよじ登りまた次のピンクを目指す繰り返しです。

家内は既に汗ビッショリの奮闘です。 小川と乾が潜んでいた岩窟は、いま【天誅窟】と呼ばれ、伯母谷集落の東北、大迫ダムを見下ろす山上にある。 伯母谷から眺めると、すぐ近くに見えるが、実際には小さな谷を二つ越えねば行き着けない。 急角度の険しい山で、円錐形のピ-ク近くに切り立った白い岩が露出している。 高さ50mは優にあろうと思われる巨大な石灰岩で、地元では『大塔さん』と呼んで崇めている。 昔、この岩の根元に大塔宮をまつる祠があったところから、 その名がついたといわれるが、おそらく上古から神聖視されてきた岩なのだろう。 小川らが潜んだ岩窟は、この巨岩の裏側、ちょうど岩の中ほどの高さのところに、ぽっかり口をあけている。 舟久保さんの師 吉見良三先生著「天誅組紀行」より抜粋 さ~愈々前日に引き続きパ-トⅡになりますが、70歳の高所恐怖症の私と65歳の家内が、無事に天誅窟に辿り着けるのでしょうか?

それは一に先達の内倉さんとガ-ドの舟久保さんにかかっていると云って過言ではないでしょう(笑) 前回にも記したとおり沢を越え、また崖をよじ登りピンクのテ-プの目印に向かって幾度も繰り替えし悪戦苦闘を重ねた結果、ようやく大塔さんといわれる所に着きました。 『天誅組紀行』ではこの巨岩を半周して裏側に出、ここから岩壁を10mばかりよじ登ったところに岩窟の入り口があるとなっています。 確かにその通りなのですが、内倉、舟久保両氏によると、この岩窟では厳しい冬を越すのは少々無理があるとの観点からもう少し向かって右側の高さ30、40mくらいの所にある岩窟では? とのことで、こちらを案内していただいた。 その前にこの大塔さんの前にある広場で小休止です。 ここまでは、道なき道を遮二無二急傾斜の山腹を突っ切り、谷を渡り、また急斜面を登ってこの広場に着き思わずヘタリコミです。 ここから約20~30分間→ 岩窟の下に到着するまでの行程は、足をすべらせて谷底に落ちないように所々では命綱で誘導して貰い慎重に進みました。 足元の一本の丸木橋は所々、腐っていてビクビクものでした。 そして天誅窟の真下の所までは、以前お二人が張っておいてくれたロ-プを必死でよじ登ります。 最後の難関、天誅窟の入り口の穴まで約30m 最後の難関、天誅窟 の入り口の穴まで約30mほんとに登れるのか?!

怖ワ~ツ 高所恐怖症の私にとってはとても勇気のいることでしたが不思議にこの時は度胸もきまり、ロッククライミングみたいにロ-プに体重を預け文字通りよじ登ることが出来ました。 続いて家内も同様に、後から舟久保さんに見てもらいながら第一段階をクリアです。 足場をかけるところがない部分は一瞬宙吊りみたいになり、恐怖感がありましたが、忠告どおり下を見ないで、ひたすらよじ登り遂に一番上の写真の少し手前の入り口に到着しました。

 思わず万歳を叫びたい心境で、本当に感動いたしました。恐らく妻も同じ思いだったことでしょう。 到着12:00 ご覧のようにこの岩窟は間口は1.5mぐらいで奥行きは広い所まで5m、その先は一旦細くなる箇所があるものの10m以上つづいている場所も多い。 尚且つ、2階もあったりで登ってみるとまた広い部屋みたいになっており3K程度の住宅みたいで隠れ場としては絶好の 場所であり厳しい探索にもかかわらず、無事に隠れおおせたのもうなずけました。 懐中電灯を下から照らすと、気持悪い!! 鍾乳洞みたいな石灰岩で、天井からは水滴などもなく、床部も平坦で充分、寝室の役目を果たせそうです。

昼食は途中のコンビニで買った弁当をこの岩窟で、小川・乾等と同じ気分で食べました。 内倉さんの弁当は私達の世話で行ったり来たりの往復により、ペチャンコに潰れていました。 誠に申し訳ございません。 それにしてもここで食べた弁当は美味しかった。 そして13:00天誅窟から降りること開始。 実は降りる時の方が怖くそれこそ念の為、身体に命綱を巻いてロ-プに引っ掛け一人一人、慎重に降りました。 もと来た道を引返し、途中の広場で休憩を挟み駐車場到着は14:50でした。つまり、復路は20分ほど多くかかった事になります。 この石は昇り降りのときに足場から下に落ちて行った天誅窟の石灰岩と同じものです。 【天誅窟】踏破記念に舟久保さんから戴きました。早速、玄関先の庭にでも置いて、よくぞ登ったな~という感動をこの石を見るたびに思い出すことでしょう。 内倉さん、舟久保さん、(実名を使わせていただくお許しを得ました)私達夫婦にとって 生涯忘れる事のない大事な思い出を下さいまして本当に有難うございました。 最後に愚妻の作った歌一首  

 ましら 魁の 維新の志士の 駆けし道 天誅窟は猿ならねば

 

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