ザ・戊辰研マガジン

2018年06月号 vol.8

幕末人物終焉の地(6-2)井伊直弼

2018年06月04日 12:18 by norippe

 直弼は1815年、35万石譜代大名彦根藩主・井伊直中の14男として生まれた。直弼は側室の子であったため、藩主の地位を継ぐ立場にはなく「部屋住み」として何ら役目も仕事も任されないつまらない生活を送ったのである。「部屋住み」は、もし兄が子を持たずに死んでしまった場合に、代わりに家を継げるようにするための補助的存在。直弼は養子の口が見つからず、17才から32才になるまで部屋住みのままであった。直弼は自身の住んでいる邸宅を埋木舎(うもれぎのや)という名を付けていた。花が咲くことのない埋もれ木を自分に例えたのである。そして直弼は、自らを次のように読んで埋れ木になることを覚悟していたのだ。

世の中をよそに見つつも埋れ木の 埋れてをらむ心なき身は


埋木舎(うもれぎのや)

 直弼は文武ではとても優れた才能があったのだ。茶道を学んで茶人として高い力量を身につけ、自ら一派を創設するほどであった。自身の著書『茶湯一会集』にて
「一期一会」
という言葉を説いている。語源は安土桃山時代、千利休が説いた茶の湯の心得であるが、これを四字熟語にしたのは井伊直弼であった。
 井伊直弼は、自身の著書『茶湯一会集』にて次のように書いている。
「そもそも茶湯の交会は一期一会といひて、たとえば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり、去るにより、主人は万事に心を配り、いささかも粗末なきやう 〔中略〕 実意を以て交わるべきなり、是を一期一会といふ」
 何度も同じ人と茶会で同席することがあるとしても、この茶会は一生にその日ただ一度のこと。二度と同じ時に戻ることは出来ないのだから心を尽くして持て成さなければならないと述べているのだ。つまり、毎日顔を合わせる友人や家族や仕事仲間であっても、言葉を交わすその一瞬一瞬は「一期一会」である。相手を思いやり、出逢えたことに感謝をしなさい。というような意味である。

 また、直弼には「ちゃかぽん(茶歌鼓)」というあだ名が付いていた。「ちゃ」は茶、「か」は歌道、「ぽん」は能の太鼓の音と言った具合で、直弼の趣味を茶化したあだなであった。このころの直弼はほとんど話題に上がることもなく、邸宅の埋木舎は彦根城のお堀の外にあり、「お堀端のちゃかぽん様」と言われる程度だった。もし何事もなければ、直弼はひとりの文化人として世を終えるはずであったのだ。

 そんな直弼であったが、1846年、直弼が32才の時に運命が巡って来たのだ。井伊家の後継者であった直元(兄)が急逝した為、直弼が代わって後継者になることになったのだ。まさに部屋住みとしての役目を果たす時が来たのだ。運命は直弼を見捨てなかった。また、1850年には藩主・直亮(こちらも直弼の兄)が死去したため、なんと井伊家の家督をついで15代目の彦根藩主となったのである。この時、直弼36才であった。

 直弼は父の代から続いていた藩政の改革を継続し、領民に対して15万両という多額の資金を分配する措置を取り、高い評価を得るようになったのだ。領民たちの声に耳を傾け、現実に即した実効性の高い政策を取り、領地は順調に発展していった。直弼は長い間低い立場に置かれていたため、弱い立場にある領民たちに対する同情心が施政に強く反映されたのだろう。藩主として優れた力量を見せた直弼は、譜代大名の筆頭として幕府の政治にも関わるようになっていったのである。

(次回に続<)

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