ザ・戊辰研マガジン

2018年06月号 vol.8

【連載】『次郎長と鉄舟から愛された男』 最終回

2018年06月04日 12:19 by norippe

 1900年(明治33年)愚庵49歳の早春、明治天皇御陵地選定のため入洛した品川弥二郎と共に、伏見桃山に観梅するのである。伏見城は豊臣秀吉、徳川家康が城主となった天下の名城。眼下には淀川が流れ、観月の名所巨椋の池があり、遠くには奈良の山並みが見える景勝の地に、明治天皇の御陵が決まったのである。そして愚庵も気候の温暖なこの地が気に入り、その年の6月に愚庵自らが設計して工事監督に当った新庵を起工したのである。
7月末に新庵竣工し、伏見桃山南麓の杜に移り住むのである。しかしその翌年から愚庵の体調が思わしくなくなったのだ。さらに翌年の1902年9月19日、歌友の正岡子規が36歳という若さで他界するのである。
 1903年(明治36年)5月、愚庵は上京して両国の回向院で大相撲を観戦するのである。現在は国技館があるが、当時は回向院の庭で大相撲が開かれていたのである。千秋楽まで9日間の相撲であった。愚案は旧水戸藩士の常陸山のフアンだった。回向院にある「力士塚」には「日本・井上剣花坊」と名が刻まれているが、この井上剣花坊というのは愚庵と一緒に相撲観戦した坊さんである。  1904年(明治37年)1月、愚庵は発熱し呼吸促迫し医師を迎え加療するのである。
 1月14日、愚庵は己の死期を悟り遺言の覚書を自ら筆をとり書き綴るのであった。
 1月15日、この日の朝より薬餌を絶ち、20名ばかりの看護人や見舞の人にひとりひとり手を握って挨拶し、謝辞を述べたのである。
 1月16日、時々脈が絶え、医者がカンフル注射をすると正気づき「また注射をしたな。いつまで俺を苦しめるのだ!」と弟子を叱った。「いつまでも逝かぬなぁ、みんなに迷惑をかけてすまぬことじゃ」と言って目を閉じるのであった。
 1月17日、午前11時過ぎ、弟子の二人をうながし読経せしめ、その経の終わらぬうちの午後0時10分。享年51歳、数奇な人生を歩んだ天田愚庵の生涯が終わったのである。


愚庵終焉の地(京都桃山)




 父母妹を探し当てるという愚庵の目的は果たせずに終わってしまった。戊辰戦争で大きく人生を揺さぶられ、父母妹を尋ねて歩いた愚庵の一生であったが、肝心の父母妹の行方に関しては結論が出ていない。
 これには二つの説があるようで、愚庵は父母妹が家僕(使用人)の手に掛かって殺されているのを知っていた。しかしその家僕を油断させるために父母妹を探しているように見せかけておいて、実はその家僕を捜すのに日本中を訪ね歩いていたという説。もうひとつは父母妹が避難して宿を取った先で村人に殺されたという説。その宿を取った家の付近の山林から一体の人骨が発見され、それが愚庵の家族のものだという説である。いずれも殺されたという説であるが、確かな証拠はなく疑問だけが残るのである。父母妹の行方は今だに謎のままなのだ。

 天田愚案は幼名を「甘田久五郎」といい、18歳に「天田五郎」と改名、28歳で次郎長の養子となり「山本五郎」となるが、31歳に次郎長の山本家から離籍して、天田五郎に戻る。そして34歳で仏門に入り「鉄眼」と名乗り、同じ歳に歌人として「天田愚庵」と称した。歌人として成就するまで愚庵は多くの名前をもち、また人生においても今まで記したような遍歴に満ちた人生であった。その中で、山岡鉄舟という偉大な人物が天田愚庵という人間を形成したと言っても過言ではない。鉄舟なくして愚庵なし。天田愚庵は山岡鉄舟から深い愛情を注がれたのである。
 愚庵が残した漢詩や和歌には、せっかちで大まかな性格がそのまま出ていると感じられるが、家族や師を思う心がにじみ出ていて良いものが数多くある。」と斎藤茂吉が評している。
 愚庵の遺言には「私が死んでも墓は造るな」とある。愚庵の最後を看取った法弟のひとり中川小十郎は、このまま墓が無いのでは愚庵が忘れ去られてしまう。せめて歌碑だけでも建てたいと思ったのである。(中川は現在の立命館大学の創立者)
 1936年(昭和11年)1月、京都嵯峨の鹿王院内に愚庵の遺骨を埋め、愚庵の辞世歌を正面に、側面には父母妹の法名を彫り刻んだ石碑を歌碑として建てたのである。こうして愚庵の遺骨は地に帰ったのである。
 しかし愚庵がそんなところで落ち着いているはずもない。魂は今も日本中を駆け巡り、そして時々は故郷のいわきに立ち寄り「父はおらぬか、母はおらぬか、城はまだ出来ぬのか!」と叫んでいるに違いない。


いわき市平の松ヶ岡公園に移設された天田愚庵の庵

 福島県いわき市の松ヶ岡公園は高台となっているが、戊辰戦争時にはこの高台に大砲を据え付け、外堀に架かる長橋を渡って攻め入る新政府軍に向け、砲を放った場所なのである。現在その高台には、磐城平藩の藩主であった安藤信正の銅像が平の街を見下ろすように建っている。そして高台の下にはひょうたん池があり、そのそばに静かにたたずむ藁葺屋根の庵がある。京都から移設された天田愚庵の庵である。その入口には旅姿の愚庵像、そして京都愚庵邸“ゆかり”の柿の木が植えてある。


松ヶ岡公園の高台風景(左の銅像は磐城平藩主安藤信正像)

 この松ヶ岡公園は春は桜、初夏には多くのツツジが咲き誇り、市民の目を楽しませてくれる憩いの場所となっているのである。

(完)


参考文献
「愚庵物語」柳内守一著
「愚庵研究」 湯本喜作著
「愚庵の生涯とその歌」大坪草次郎著
「幕末とうほく余話」加藤貞仁著
「山岡鉄舟研究会」http://www.tessyuu.jp/
「次郎長翁を知る会」 http://jirocho.com/

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