ザ・戊辰研マガジン

Vol.7

【連載】『次郎長と鉄舟から愛された男』 第7回

2018年05月05日 13:22 by norippe

[正岡子規との交流、そして次郎長の死]

 天田愚庵は各地を旅し、父母の菩提を弔い、正岡子規をはじめ当代の文人と交わり風月を友としたのである。
 1892年(明治25年)11月12日、正岡子規が松山から上京する母と妹を神戸港に迎える途中、愚庵を訪ねたのだった。だが、あいにく愚庵は留守だったのである。そして11月15日、母と妹を連れて東京に帰る途中、再び京都で下車したのである。どうしても愚庵に会いたかったのだろう。愚庵は大変喜んで迎えたのである。そして子規の手土産の柚子味噌をなめながら夜遅くまで語りあったのである。
「獺祭書屋日記」に子規はこう記している。
「十一月十二日 訪愚庵鉄眼師于霊山下。与虚子遊嵐山舟遊詣大悲閣。虚子同宿」
(霊山の下に愚庵禅師を訪ねた。虚子と嵐山で舟遊びをし、大悲閣に詣でた。虚子が同宿した。)また、十一月十五日はあいにくの雨だったが、粟田口・知恩院・高台・清水寺・大仏・通天を巡り、虚子と二人で愚庵和尚を訪ね、夜更けまで語り明かしたのだ。
 子規は、本郷区駒込から根岸にある日本新聞社社長、陸羯南宅の西隣りに引っ越した。松山から上京した母と妹と子規は、子規庵と名付けたこの家に三人で住んだのだ。そして子規は十二月一日から日本新聞社に出社することになったのである。

1893年(明治26年)、天田愚庵は東京の正岡子規を見舞ってから北海道へ旅立ったのである。二回目の北海道への旅である。北海道で愚庵は、清水の産寧坂に庵を作る時に百円を喜捨してくれた江正敏を訪ねた。江正敏は磐城平藩時代の親友で、北海道ではサケ・マス漁業で成功をして、釧路、函館で汽船会社も経営していた。また、北海道庁長官の北垣国道や、両親を探し訪ねた山形県で当時警察本部長だった財部羗らの友人を訪ねる旅でもあったようだ。

 北海道へ旅行中、愚庵の耳に訃報が届いたのだ。清水の次郎長の死である。1893年(明治26年) 6月12日、74歳で没したのである。次郎長の葬儀には政官財界から街道筋の親分衆にいたるまで、相当の数の会葬者がいて、棺がお寺に着いても、葬列の最後尾はまだ自宅にいる状況であったといわれる。
 愚庵は北海道からの帰りに清水港に寄り、梅蔭寺の次郎長の墓に参り追善供養をしたのである。次郎長の墓銘は「侠客次郎長之墓」とあり、これは旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が揮毫したのである。このとき榎本武揚は明治政府の農商務大臣だった。山岡鉄舟と同様、清水港での咸臨丸の一件を次郎長に感謝したかったのである。


        清水の次郎長の墓

 1896年、正岡子規との交流の中、愚庵は子規からの便りがないことを心配し、愚庵の庵に長く滞在していた桂湖村が帰郷するにあたり、園中の柿15個と松茸を彼に託して子規の病床に届け見舞ったのである。子規はそれに答え愚庵に歌を贈り、また愚庵も歌を贈ったりと、二人の交流はますます深まるのであった。


      正岡子規

 子規は、陸羯南の新聞「日本」に「歌よみに与ふる書」を連載していたが、明治21年このかた子規の作り続けてきた歌は一変したのである。天田愚庵の万葉調の歌は子規の和歌革新運動となった。独り静かに歌を詠んでいた愚庵の存在は、子規に大きく影響したのである。

<続く>次回は「愚庵の晩年」

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