ザ・戊辰研マガジン

Vol.7

飯野(保科)藩広尾別邸

2018年05月06日 09:36 by tange

 会津藩上席家老・萱野権兵衛の終焉の地である飯野(保科)藩広尾別邸の位置を確かめたいと考えていた。
 「天保改正御江戸大絵図、天保14年(1843)、高井蘭山作」という古図が残されている。文政元年(1818)に幕府によって定められた江戸御府内のほぼ全域が示され、その境界線が朱線で引かれている有名な古図(朱引図)である。都立中央図書館でその朱引図を見る機会があり、そこに保科家の広尾別邸を探した。
 広尾ということで、南部藩下屋敷(現 有栖川宮記念公園)、祥雲寺(現存)、光林寺(現存)などの周辺を朱引図上で探したが、全く見つからなかった。同時に展示されていたそれ以前の二十枚ほどの江戸大絵図上を探しても、広尾の飯野(保科)藩屋敷はどこにも無かった。
 保科家は、会津(松平)藩祖・保科正之が寛永8年(1631)に藩主となった信州高遠の大名家で、千葉飯野に転封されるが、幕末まで続く名門である。その広尾別邸が江戸大絵図に記載されていないのは不思議だった―。
 明治2年(1869)5月18日、萱野権兵衛は、前年9月に鶴ヶ城を開城し降伏した会津藩の鳥羽・伏見から会津まで朝廷に逆らい戦をしたとする罪を一身に受けて、同藩に縁の保科家で命を失った。幕末二百八十余藩のなかでも尊皇の志が最も高かった会津藩にとって、まことに無念の叛逆の罪であった。
 権兵衛は、降伏後、江戸から改め東京になった芝赤羽橋の有馬藩上屋敷に幽閉されていた。そこから刑場となった広尾の保科家に向かう道筋は、早乙女貢著「続 会津士魂一」に詳しい。

『赤羽橋の有馬屋敷の竜源寺に面した北門を出て、(略)、綱坂を下り、会津藩下屋敷の前を塀に沿ってぐるりと廻り、三ノ橋を渡ったと考えられるが、半刻のいのちと決まった権兵衛は、せめてもの希いとして、会津藩下屋敷をめぐることを頼んだのではあるまいか。長い間、親しんだ下屋敷を経めぐって別れを告げる―権兵衛の心情ならあり得ることだ。(略)
三ノ橋は広大な松平肥後守屋敷に因んで、一名、肥後殿橋とも呼ばれている。(略)
この小橋を渡った場合、古川沿いの、いわゆる新堀端―川沿いの道を辿り、相模殿橋とも呼ばれる四ノ橋の袂を通り、光林寺の前を過ぎると、ようやく保科家の長塀が見えてくることになる』

 竜源寺、綱坂、三ノ橋、四ノ橋、古川、光林寺は、それぞれ現存し、位置も当時から大きく変わっているとは思えない。
 竜源寺門前から徳山藩毛利日向守に由来する日向坂を下れば、直ぐ古川沿いの道に出るのだが、最期に臨む権兵衛は、慣れ親しんだ会津藩下屋敷に別れを告げたく、廻り道をして綱坂を下った、と早乙女氏は述べている。綱坂は同屋敷東側を南へ下がるかなり急な坂で、羅生門の鬼退治で有名な渡辺綱の生誕地伝説にちなんで命名されている。
 当時の会津藩下屋敷は敷地3万3千坪という広壮な屋敷だった。特に、北側斜面に造られた庭園は、江戸でも有数の美しい庭園として名高かった。しかし今では、その辺りに、かつての下屋敷の面影はほとんど無い。北に隣接した島津佐土原藩上屋敷跡の近代歴史的建造物・綱町三井倶楽部(J.コンドル設計)の南側斜面に拡がる日本庭園に、辛うじて当時の名残が見られる。
 古川沿いの道は、拡幅され明治通り(環状5号線)になっている。


   綱坂(右側、旧会津藩下屋敷、現綱町三井倶楽部)

 権兵衛の有馬屋敷から辿った道を早乙女氏の著作に従い歩くと、明治通りと外苑西通りが交わる天現寺橋交差点に到る。同書に、別の記述がある。

『この保科の広尾屋敷は、現在の天現寺橋の交叉点付近にあった。目黒川を挟んで天現寺境内に隣接し、堀田摂津守と松平伊勢守の下屋敷と背中合わせになっている。
 屋敷地は矩形を斜めに断ったような変形で、南側の間口が広く、六十間あまりもあり、古川に面していた。この屋敷には不浄門の裏口がなく、船着き場もあるが、水門で舟入りができているのは、二つの川に挟まれた地形を利用してのことである』

 ここで、全く分からなくなる。現在の目黒川は、この古川から台地を挟んで南へ2㎞ほども離れたところを流れている。当時、目黒川の流れは、今と大きく異なっていたのであろうか。さらに現在、ここ天現寺橋付近には、古川以外の川は見当たらない。
 しかし、もう少しこの辺りを調査することにした。そこで、天現寺橋を渡り慶応義塾幼稚舎の正門脇から古川を覗いてみると、外苑西通り下部から古川へ一つの流れが合流しているのを見つけた。つまり、現在では暗渠になっている川が、外苑西通りに沿って存在していたのだ。この川について調べると、青山霊園の両脇の谷筋から流れ出た笄(こうがい)川だった。
 まず早乙女氏の著作で目黒川を笄川と訂正する。笄川(外苑西通り)と古川(明治通り)に面し笄川を挟んで天現寺境内の反対側辺りに、飯野(保科)藩の屋敷が在ったことが分かるのだ。
 萱野権兵衛終焉の地は、都営広尾五丁目(高層)アパート、明治屋ビル、広尾公園からなる、かなり広大な一画だった。


               天現寺橋交差点より保科家広尾別邸跡を望む
           (左・明治通り-古川沿い、右・外苑西通り-笄川沿い)

 保科家が広尾に屋敷地を拝領したのは、調べると朱引図が作成された天保14年(1843)以降だったので、大絵図に示されていなかったのだ。そこで、江戸切絵図を探した。「東都麻布之絵図、嘉永4年(1851)、戸松昌訓作」に保科家の広尾別邸が明示されていた。敷地の形状や隣接屋敷の状況も、早乙女氏の記述と重なった。
 古図上に大名屋敷を記載する場合、いろいろ決まりごとがある。まず、その正門に向けて藩主名が記される。さらに上屋敷の場合は家紋、中屋敷は■印、下屋敷は●印が付けられる。それに従い絵図を見ると、保科弾正忠の広尾別邸は、正門が古川沿いの道(現在の明治通り)に面して在り、下屋敷であったことが分かる。
(なお現在、古川は天現寺橋より上流を渋谷川と名を変えるが、本稿では早乙女氏の著作にならい全て古川とした)


           広尾公園(保科家広尾別邸跡)内より明治通り方向を見る

 この地から萱野権兵衛が没後埋葬された興禅寺へは、天現寺橋交差点を外苑西通り沿に目黒方面へ往き、次の交差点を渡り斜め左に進み、明治坂を登りきって左折すると直ぐに着く。
(鈴木 晋)


(次回は、江戸湾・第三、第六台場です)


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