ザ・戊辰研マガジン

Vol.4

初めての戊辰研 「浅草集会」体験記

2018年02月27日 19:01 by kohkawa3

 戊辰戦争研究会の浅草集会に参加した。
 当研究会には昨年、暮も押し詰まってから入会し、今回初めての例会への参加となった。浅草集会は新年会と史跡巡りを兼ねた催しと聞いている。
 新年会は上野で開催する。大阪、福島など遠路はるばる参加される方もあるとのことで、夕方4時開宴そして6時お開きと健康的である。さらに、二次禁(二次会禁止)だという。何やら訳がありそうだ。

【雷門から今戸神社、待乳山聖天へ】

 新年会に先立って浅草・浅草寺界隈の史跡めぐりがあった。
 1月28日午後1時、浅草「雷門」の交番脇に集合である。会の旗を持った集団はすぐ見つかった。
 定刻までに男ばかり総勢8人が集合、挨拶もそこそに混雑する雷門を後にして、吾妻橋西詰から隅田川べりに出る。
 伊達氏お手製のレジメを繰りながら、隅田川沿いの遊歩道を上流に向かって歩く。あいにくの曇り空と、寒波の襲来で少々寒い。風がないのが救いである。足元には隅田川の寒々とした波がヒタヒタと寄せていた。

 しばらく遊歩道を歩いて土手をのぼると左前方に待乳山聖天が見える。ここは後回しにして、目の前の通りを今戸神社方面に向かう。この通りには、若い女性が連れ立って歩く姿が目立つ。
 今戸神社は、康平6年(1063年)源頼義・義家親子が奥州討伐の折、京都の岩清水八幡宮を勧請し、祈願したのが始まりといわれる。近年、縁結びの神社として売り出している。そのせいで女性が目立つのだろう。
 本殿前には、お参りする女性たちが、一列に長く並んでいる。一人づつ順にお参りするのがこの神社の流儀らしい。交通安全や家内安全と違って、縁結びでは、願い事が混ざったりするとやっかいな事になるからだろうか。昔聞いた落語でこんなのがあった。
《縁結びの神様が一杯やりながら
「この女とこの男をくっつけて」
「こっちの男とあっちの女をくっつけて」
とやっているうちに男が一人余ってしまった。酔った勢いで
「ええい面倒だ、ここにくっつけちまえ」
「とまあ、こんな具合で三角関係ってえやつはできるわけでして。」》
 神様も大変だ。間違えたりすると後が怖い。

 今戸神社には「沖田総司終焉の地」の石碑がある。結核を患っていた沖田総司を診察した松本良順が、当時、今戸神社を仮住まいとしていたことから、ここが沖田総司終焉の地とされている。
 その石碑のとなりに、「今戸焼き発祥の地」の石碑があった。この辺り、旧今戸町は江戸の昔から焼物の産地だった。嘉永年間発行の江戸切絵図「浅草絵図」を見ると、今戸町のあたりに「此辺瓦ヤクナリ」と記されている。
 そそっかしい人は「今川焼き発祥の地」と勘違いすることもあるらしい。
 今戸焼きの猫の置物が人気を博した事もあり、招き猫発祥の地とする説もある。本殿の脇には今戸焼きなのだろうか、黒い猫の焼き物がいくつも並んでいた。しかし、招き猫発祥については記録や言い伝えは確認されていない。
 今戸神社の鳥居の前で記念撮影をして待乳山聖天方面に戻る。

 待乳山聖天は、境内のパンフによれば、浅草寺の支院のひとつで、宗派は浅草寺と同じ「聖観音宗」である。しかし、寺院でありながら、本堂正面には「聖天宮」の扁額が掲げられており神仏習合的な信仰が今も生きているという。「聖天宮」は中国の道教につながる宗教で神を祀る。
 階段を登って境内に入ると、大根と巾着を売っていた。大根は健康の、巾着は商売繁盛のご利益を示しているという。1月7日には大根まつりが行われ、参道で風呂吹き大根とお神酒が振る舞われる。
 待乳山聖天は標高10m位の小高い丘の上にある。江戸時代には隅田川を望む絶好の景勝地で、多くの歌人や絵師によって待乳山を題材とした作品が描かれ、江戸の名所のひとつとなっていたという。現在は、残念ながら隅田川を望むことはできない。
 また、この辺りは池波正太郎の生誕の地としても知られる。
 池波正太郎は著書の「江戸切絵図散歩」の中で以下のように書いている。
 「大川(隅田川)と山谷堀が合流するあたりに真土山・聖天宮(まつちやま・しょうでんぐう)があり、その左側の町の一角で、私は生まれたことになる。」
 「聖天町から今戸、橋場、さらにさかのぼって千住大橋のあたりは、私の小説の舞台だ。このあたりの風色を何度書いたか知れない。」
 「仕掛人・藤枝梅安がなじみの料亭〔井筒〕は橋場にあるし、剣客商売の、秋山小兵衛隠宅は川向うの鐘ヶ淵にある。」
 待乳山聖天の隣の公園には、池波正太郎生誕の碑がある。池波正太郎が生まれた頃、このあたりは「浅草聖天町」と呼ばれていた。

【姥ケ池から浅草神社、浅草寺へ】

 待乳山聖天から浅草寺方面に歩く。浅草神社に向かう途中に「姥ケ池(うばがいけ)」の案内表示があった。公園の一角に3メートル四方くらいの囲いがある。このあたりに、かつて隅田川に通じた大池があり、明治24年に埋め立てられたという。
 なぜここにあった池が「姥ケ池」と呼ばれるようになったのか?案内板には「昔、浅茅ケ原の一軒家で、娘が連れ込む旅人の頭を石枕で叩き殺す老婆がおり、ある夜、娘が旅人の身代わりになって、天井からつるした大石の下敷になって死ぬ。それを悲しんで悪業を悔やみ、老婆は池に身を投げて果てたので、里人はこれを姥ケ池と呼んだ。」とあった。
 名前の経緯はわかったが、何のために老婆は旅人を殺したのか?なぜ娘が旅人の身代わりになったのか?判然としない。もやもやしながら二天門をくぐる。

 二天門から浅草寺の境内に入るとすぐ右手に浅草神社(三社権現)がある。いつもは、浅草寺の隣にひっそりとあるが、5月の例祭の三社祭では主役である。浅草神社は江戸時代までは浅草寺と一体であったが、明治維新の神仏分離令により浅草寺と別法人となった。
 鳥居をくぐると境内はさほど広くなく、建物も地味な佇まいであった。しかし、普段は開けられていないらしい本殿脇の神輿蔵が公開されており、一之宮から三之宮まで三基の神輿をゆっくり鑑賞できた。
 神輿蔵の前でしばらくぼんやりしている間に、あられのようなものがパラパラと落ちてきた。「天気予報にはなかったのに」と思ううち、ザラザラッと勢いを増してきた。あわてて毛糸の帽子を取り出し防御したが、あられは間もなく通りすぎて行った。

 浅草神社を出ると、浅草寺の大きな本堂が目の前に見える。雷門から仲見世を通り宝蔵門そして本堂に到る通路は人でごった返していた。
 由緒によれば、浅草寺は1400年近い歴史をもつ観音霊場とされている。
 推古天皇36年(628)、隅田川のほとりに住む檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)兄弟が、漁をしている最中、投網の中に一体の像を発見した。兄弟はこの像を持ち帰り土地の長であった土師中知(はじのなかとも)に見てもらうと、聖観世音菩薩の尊像であることがわかり、祀るようになったという。浅草寺の起源である。
 この時登場する檜前浜成・竹成兄弟と土師中知の三人を祀ったのが三社権現(浅草神社)ということである。浅草寺と浅草神社は切っても切れない仲なのである。
 平安時代初期には天台座主慈覚大師円仁が来山、浅草寺の中興開山と仰がれるようになる。この慈覚大師円仁は下野(栃木県)の出身である。万葉集の東歌にも歌われた三毳山(みかもやま)のふもと、下津原(栃木県南部の栃木市岩舟町)に生まれている。
 下津原には円仁の名にちなんだ円仁庵という手打ち蕎麦屋もある。慈覚大師円仁は私と同郷の偉人である。浅草寺が身近に感じられた。
 本堂前の香炉から線香の煙がもくもくと立ちのぼっている。患部に煙をあてると病気が治るという信仰がある。みんなご利益を得ようと必死である。
 私も無意識のうちに頭から煙をかぶった。ここに来るたびに試みるが、今のところ頭の内も外も改善のきざしはみられない。
 この後、浅草寺の本堂、お水舎、宝蔵門など人気のスポットをゆっくりと見物する。

【浅草寺境内めぐり】

 広い浅草寺境内には他にも見どころがある。レジメを頼りに弁天山(時の鐘)、五重塔、薬師堂、瓜生岩子像、伝法院をめぐる。
 弁天山は宝蔵門の脇の小高い丘で、階段を上がったところに弁天堂が建っている。その隣に「時の鐘」がある。この鐘は元禄5年(1692)に徳川綱吉の命により改鋳され、江戸の町の時を刻んでいた。
 時の鐘は上野寛永寺にもある。最初に寛永寺の鐘が鳴り、その音を聞いて、江戸の九個所の寺々が鐘をついたといわれる。
 芭蕉の「花の雲 鐘は上野か 浅草か」の句には「草庵」という前書がついている。深川の草庵の縁側から向う岸の上野、浅草を眺めると、桜はまるで雲のよう。聞こえてくる鐘は「寛永寺」か「浅草寺」か。今度は寛永寺の時の鐘を見に行こう。
 浅草寺の鐘は現在でも朝6時と除夜の鐘が撞かれているらしい。

 ここまでで、本堂に向かって右側の主だった史跡はめぐったことになる。次は本堂に向かって左側、まずは五重塔。
 浅草寺境内に入った時から五重塔は見えていた。朱塗りの色も鮮やかで、いかにも頑丈そうである。
 現在の五重塔は昭和48年に再建されたものであるが、もともとは天慶5年(942)、平公雅(たいらのきんまさ)によって創建された。その後、数度の倒壊に遭っても再建されてきた。
 徳川家光によって再建された国宝五重塔は昭和20年3月の戦災によって焼失した。戦前までの五重塔は本堂の反対側(向かって右側)にあった。少し前、お水舎のあたりで旧五重塔跡の石柱を見た。

 本堂の西にある薬師堂に向かう。この辺りは食べ物の屋台が並び、縁日のようである。薬師堂は江戸時代以前から残る建築物で、二天門や六角堂と並んで古い建物である。
 薬師堂からさらに西の方に向かうと瓜生岩子女史の銅像がある。瓜生岩子は福島県会津に生れ、その半生を社会福祉事業にささげた。銅像にもなるような人なのに、名前も知らなかった。はずかしい。
 瓜生岩子像の一角には、浅草らしく喜劇人の碑や映画弁士塚などがあり、寺の境内で良く見かける力石もあった。
 瓜生岩子像の前で記念撮影をして境内を出る。

 浅草寺の西の端にある奥山門を出て、木馬館を右に眺めながら左に折れるとホッピー通りである。ホッピー通りは屋台のような狭い間口の店先に、風よけの透明ビニールシートを垂らした店が軒を連ねている。名前の通り飲み屋街だが、昼間から客であふれていた。歩きながら観察すると、客の半分は女性である。しかも若い女性が多く、活気があった。
 ホッピー通りを抜けて、伝法院通に入るとすぐ伝法院山門がある。その向いの浅草公会堂には有名人の手形とサインが舗道上に埋め込まれている。あまりに数が多すぎて目移りがする。
 帰ってからデジカメに収めた手形をみた。永六輔、小沢昭一、池波正太郎、淀川長治など古い人ばかりだった。
 浅草探訪はこれで終了。いよいよ新年会会場に移動する。

【北海道で新年会】

 銀座線「上野広小路駅」を降りてすぐの居酒屋「北海道」が新年会の会場である。定刻10分前に入店、個室には新年会の小横断幕も設えられていた。
 鈴木会長の乾杯の音頭、型通りの写真撮影のあとは、酒、肴が運ばれ話も盛り上がる。
 宴たけなわ、向いに座る竹田氏が「いや、実は」と言いながら、カバンの中から物騒なものを取り出した。と思ったら、それは尺八であった。携帯用に2本に分かれた尺八をつなぎ合わせ、十八番の一曲を演奏して下さった。鈴慕会琴古流尺八教授・大師範の腕前である。目の前での生演奏は贅沢なひとときであった。
 尺八のための曲ばかりでなく、歌謡曲など馴染みのメロディーを数曲披露されたが、中でも演歌「北国の春」は心にしみた。
 今回参加の会員の中に、音楽活動の経歴を持つ方が複数おられ、音楽談義に花が咲いた。音楽には門外漢の私も興味のある話を聞くことができた。
 そのあたりをピークに、さらに飲み放題の杯を重ねるうち、私の記憶は徐々にフェードアウトしていくのだった。
 そして、開宴二時間後、新年会は盛況のうちにお開きになり、会員各氏は二次禁をしっかり守って帰途についた。 (大川 和良)

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