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ザ・戊辰研マガジン

Vol.4

幕末人物終焉の地(3)

2018年02月02日 22:41 by norippe
2018年02月02日 22:41 by norippe

[新政府から抹殺された有能幕府官僚「小栗上野介忠順」の終焉]

 マガジンも4巻目となり「幕末人物の終焉の地」を書くにあたり、誰を書こうかと非常に悩んだ。ましてや、意にそぐわない形でこの世を去った人物を書くわけなので、気持ちも曇る。今回の人物「小栗上野介忠順」を書いて行くうちに、段々と腹立たしさが増してきた。明治の近代化がいかにも薩長土肥の功績とされて来た維新後150年だが、明治政府よりも先に近代化政策の先駆者として活躍していた徳川幕府の「小栗上野介忠順」を忘れてはならない。勝てば官軍、歴史操作はいかようにでもなる。維新後の近代化政策を模倣せざるを得ない事を予想していた新政府は、近代化の功績を自分たちのものにする為にも、何としても小栗は抹殺しなければならなかったのである。
今回はそんな歴史の藻屑と消えた人物「小栗上野介忠順」の終焉までを追ってみた。



 小栗は文政10年(1827年)、江戸幕府旗本小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷に生まれた。幼少の頃から自分の意思をはっきり言う性格の持ち主で、文武両道に長ける小栗は若いうちからその才能をおおいに発揮した。小栗の経歴は35歳で外国奉行、37歳で陸軍奉行、38歳で軍艦奉行、40歳で海軍奉行、41歳で陸軍奉行、いずれも勘定奉行を兼務してのエリート官僚であった。34歳の時、咸臨丸一行とともに軍艦・ポーハタン号に乗船して日米修好通商条約批准のため渡米したのだ。この時の小栗の役目は一両小判と1ドル金貨の交換比率を改める事であった。
 開国当時、日本での金と銀の交換比率は海外とは大きく違い、外国人が日本に銀貨を持ち込んで、日本で小判に交換して帰国しただけでボロ儲けという状況であった。そのため多くの小判が海外に流出して、日本の小判が無くなりつつあったのだ。小栗は、1ドル金貨の金の含有量を確かめる為、日本から持っていった秤を使って重さを測り、難しい計算をソロバンで計算し、その不平等さをアメリカに知らしめたのである。そして無事交渉をまとめ、その後の小判の流出を食い止めたのである。



 大政奉還・王政復古と揺れに揺れる幕府内にあって、無駄な出費を省いての課税方法の見直しによる経済対策を行い、何とか幕府の財政を維持し、さらに、国の安全を守るための軍艦を自前で建造する必要があると、フランスの力を借りて日本初の大規模な造船所も建設したのだ。商工会議所や製鉄所、銀行制度や郵便電信制度、鉄道網やガス燈の設置等など、明治政府がやる以前に小栗が手掛けた政策だったのである。

 1867年、徳川慶喜は大政奉還後、自らが新政府の盟主となって政治を担い、日本を欧米のような近代国家にしようと考えていた。しかし一部の幕臣が「打倒!薩摩」を叫んだことから鳥羽・伏見で新政府軍である薩長と激突、「鳥羽伏見の戦い」いわゆる戊辰戦争が勃発したのである。しかし、新政府軍は天皇の後ろ盾がある事を意味する「錦の御旗」を掲げた事で、徳川慶喜は自らが朝廷の敵になった事を悟り、江戸城へ敵前逃亡してしまったのである。その後、江戸城内では新政府軍と交戦するかどうかの意見が分かれ、当時、勘定奉行と陸軍奉行を兼務し、財政と軍備を掌握していた小栗は徹底抗戦を主張したのである。しかし徳川慶喜はあくまでも新政府に恭順を唱え、小栗の意見には耳を貸さず小栗を罷免してしまったのだ。
 その4ヶ月後、旧幕府派寄りの仙台藩を中心とした東北・越後の諸藩は奥羽越列藩同盟を結成したのである。これは薩長らの新政府軍に対抗する力を持つ東日本政権樹立を目指そうとした策であった。イギリスの後ろ盾があった薩長に対して、フランス・アメリカ・ロシアなど諸外国と接触して、武器や軍艦を購入する計画があったのだ。また、政治面では明治天皇の叔父にあたる輪王寺の宮を同盟のシンボル、つまり、東日本の天皇に擁立しようとしたのである。
 そもそも東日本政権樹立構想はどこから生まれたか?その構想はなんと徳川家康が江戸に幕府を開いた時代にまで遡るのである。上野にある寛永寺は徳川ゆかりのお寺。このお寺は寛永2年に江戸城の北東に鬼門封じのために作られたお寺で、これはもともと京都御所と比叡山を見立てたものと同じ構想で、それをそっくり江戸に再現しようとしたのが天海大僧正。この天海は江戸のいたるところに徳川家を守り抜く秘策を施したといわれている。そんな天海が創建した寛永寺には、意外な事実があったのだ。それは、1600年代の半ば以降、寛永寺の歴代住職は、なんと13代に渡り、輪王寺と呼ばれ皇族から迎え入れられていたのである。輪王寺の宮は寛永寺だけではなく、日光輪王寺の住職や比叡山延暦寺の座主も兼ねた、日本の宗教界に大きく君臨する存在だったのである。

 ではなぜ皇族が住職になるのか?そして宗教界で権限があったのか?
一説には、皇室から江戸に住職を迎えることで、もし京都の朝廷と何かあった場合、還俗させて東に新しい皇帝を樹立させる、いわば人質的考えがあったのだ。つまり、江戸に皇族を住まわせる事で、朝廷の敵となる事を防ぐとともに、有事の際、京都の朝廷に対抗するといった策なのである。これはまるで奥羽越列藩同盟の策と同じであった。というより、奥羽越列藩同盟がこの策を取ったというのが正しいのだろう。たとえ短い期間でも、もし日本に二人の帝がいる歴史は、新政府軍にとってはあってはならない事で、歴史から何としても抹殺しなければならなかったのだ。奥羽越列藩同盟軍は武力で劣り、越後や会津での戦いに敗北してしまい、ここで新政府軍の心配は消えたのである。

 東日本樹立構想は小栗にも同じ考えがあったものと思われる。江戸城が新政府軍に渡ってしまう前に、財産を持ちだして東日本政権樹立の為の武器の購入等に使おうとした説がある。小栗というと徳川幕府埋蔵金の話題で必ず名前の上がる人物であるが、果たして本当に江戸幕府に金はあったのかが疑問だ。
先日、テレビ番組で徳川埋蔵金をやっていたが、江戸城にある金を江戸湾から仙台まで運ぶという構想なのだが、その金を積んだ早丸という船が江戸湾で沈んでしまい、その船を探すという内容であった。徳川埋蔵金に関しては赤城山麓に埋もれているという話もあり、こちらもテレビで発掘作業の現場の様子が放映されるのがしばしば過去にあった。すべて勘定奉行であった小栗が関わったものとされているが、果たして真相やいかに?

 徳川慶喜に罷免された小栗は、知人から米国亡命を勧められたり、上野彰義隊の隊長に推薦されたりしたが、「徳川慶喜公に戦う意思が無い以上、大義名分の無い戦いはしない」と拒絶したのである。
 その後、小栗は一族を連れて領地である上州群馬郡権田村に行き、隠居生活に入るのである。そして村人達と力を合わせ、用水路を開拓したり塾を開いたりと穏やかな日々を暮らすのであった。しかし、江戸無血開城を成した新政府軍は、東北へ軍を進める一方、関東周辺の征圧にも乗り出し、そして小栗の捕縛の命令が打ち出されたのである。その容疑は、幕府の金を持ちだし大砲などの武器を用意し、叛乱を計画しているという事である。これは新政府軍がただ単に、邪魔な小栗を抹殺したいが為の口実であったのではないだろうか。事実、その時の小栗の生活は仮住まいの小さな家で、罷免されてからたったの3ヶ月で武器を用意して軍を組織出来るはずもない。
 小栗は家臣達ともども捕縛され、ろくな取り調べもないまま、翌日、権田村を流れる烏川の河原にて斬首されたのである。小栗この時42歳であった。


    烏川にかかる水沼橋からの河原風景


   斬首場所から近くに建つ小栗の顕彰慰霊碑

 現在、その斬首された河原の近くには、小栗の顕彰慰霊碑が立っている。
碑文「偉人、小栗上野介罪なくして此処に斬らる」
昭和7年地元の有志等によって建てられた碑である。

(記者:関根)

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