ザ・戊辰研マガジン

Vol.4

新選組と小野権之丞

2018年02月02日 22:42 by tange

 会津藩士・小野権之丞は、文久2年(1862年)12月24日、藩主・松平容保に従い上洛し京都守護職本陣・黒谷(金戒光明寺)へ入る。翌25日、主君に随伴し関白・近衛忠煕公に拝謁、容保参内の早期実現をお願いした。翌年1月7日、公用局公用人兼奥番に任命される。小野の長女・美和子が、私の高祖父・鈴木丹下の妻である。
 小野は、公用人として諸事にわたって公家および幕府や諸藩との折衝にあたると同時に、その年3月10日に会津藩の預かりとなった壬生浪士組の差配の任にも就いていた。
 壬生浪士たちによって組織された新選組と小野との関わりを追ってみたい。
 ―参考文献:「京都守護職日誌全五巻(菊池明編、新人物往来社発行)」


  京都守護職・会津藩の本陣となった金戒光明寺

 文久3年(1863年)9月16日(10・28:新暦10月28日以下同様) 芹澤鴨、暗殺
 会津藩お預かりの壬生浪士組の一部、とりわけ芹澤一派の京中における狼藉が目に余るようになっていた。同年8月12日の大和屋焼討事件に憤った容保は、浪士組へ芹澤鴨の処置を命じた。『会津候、斯ル乱暴ヲ憤リ、近藤勇、三(山)南敬助、土方歳三、沖田総司、原田左之助ノ五人ヲ呼出シ其処置ヲ命ズ』、と「新撰組始末記(西村兼文著)」に書き残されている。当然、藩主がその意を直接伝えることはあり得ないので、公用局が近藤らに密命を与えた。
 会津藩は、同年8月18日の政変で功のあった壬生浪士組へ、正式隊名として同藩に縁の‘新選組’を授けようとするが、芹澤の存在がなんとしても障害であった。そこで小野の属する公用局は、芹澤一派とは距離を置く近藤ら五人を呼び出し、その処置を命じた。‘新選組’を名乗らせる条件として、芹澤一派の粛清を求めたのではないか。9月18日の芹澤葬儀の一週間後、9月25日、一説によれば隊名‘新選組’が正式に下されている。

 元治元年(1864年)11月13日(12・11) 小野権之丞、広島出張
 その日容保は、第一次長州征伐軍の諸藩兵慰労の使者として、小野らに広島出張を命じている。「小野権之丞日記」に拠ると小野は、11月17日昼前、大坂の藩蔵屋敷で新選組の近藤勇、土方歳三と面談し酒を酌み交わしている。その午後、そこを発ち西へ向かった。
 長州征伐への出陣を強く望んでいた容保だったが、京都守護職の任を放棄することも許されず、その間、京都に留め置かれた。この時の小野の出張は、名目はさておき、長州周辺の情報収集が目的であると考えるのが自然である。出立前に大坂で近藤らと会っていたのは、長期に亘る情報収集を新選組に依頼するためだったのではないだろうか。
 慶応元年(1865年)11月4日、近藤は広島へ出張。そこに、同行していた監察の山崎蒸、吉村貫一郎を残留させ、12月22日、帰京している。慶応2年(1866年)6月15日、山崎と吉村は、長州再征戦の芸州口の戦況報告書を新選組へ送っている。その報告書には、幕府側の彦根(井伊)藩、高田(榊原)藩の大敗走の様子が記されていた。

 慶応3年(1867年)6月10日(7・11) 幕府、新選組総員の幕臣取り立て決定
 翌々日の6月12日、事件が起きた。幕臣取り立てに反対の新選組隊士・茨木司以下十名が、会津藩へ新選組からの脱隊を直訴した。その理由は、『大した功績もないにもかかわらず、今更幕臣という格式を頂戴するのは、それぞれの出身藩にも面目なく、さらに二君に使えることになるので許されないことである』というものであった。
 6月13日、小野とやはり公用人であった諏訪常吉が、茨木らの翻意を説得させるため、近藤と土方を呼び出している。しかし翌14日、脱隊が認められなかった茨木ら四人が守護職邸にて自刃し、他の六人は放逐された。
 この時小野は、諏訪と協力して事件の解決にあたっているが、この京都における二人の関係は、東北での奥羽越列藩同盟と東方政権樹立を目指した画策から箱館戦争の終結へと続いていった。二人は、幕末から維新への大きな変革の時代にあって、何としてでも会津藩を守ろうとする同志の絆で強く結ばれていた。

 慶応3年(1867年)6月17日(7・18) 近藤勇、幕府親藩会議に出席
 長州藩の処分に関する幕府親藩会議が開かれ、越前、伊予、薩摩、土佐の四藩の伺書について激論が交わされた。その会合へ近藤が小野とともに出席し持論を述べている。特に長州への寛大な処分に反対し、『(毛利)大膳父子の官位を復旧するなどとは、妄言もはなはだしい』と断じている。
 御目見得以上の幕臣に取り立てられることが内定していた近藤の晴れ舞台だった。しかし歴史の流れは、近藤が考えていたところと全く反対の方へ動いていた。

 明治2年(1869年)5月11日(6・20) 土方歳三、箱館に散る
 この日、旧幕臣・榎本武揚を総裁とする蝦夷共和国の箱館へ新政府軍の総攻撃が始まる。
 土方は、新選組が守備していた弁天台場が敵に包囲されたため五稜郭から出陣、途中、一本木関門付近で銃弾を受け戦死。享年35。
 小野は、医師・高松凌雲を院長とする箱館病院(野戦病院)の事務長に就いていた。
 戦死二日前の9日、土方は小野を訪ねている。 『晴。戦なし。(略) 土方来る』 と「小野権之丞日記」の5月9日の項に記されている。土方の小野訪問の用向きは明らかになっていない。暫しの戦休止の時、二人は何を語っていたのであろうか。文久3年からの来し方を、お互い思い出していたのかもしれない。
 会津遊撃隊長となっていた諏訪が戦場に残した不戦の手紙が契機となり、事態は終戦へと動き出す。5月13日、高松と小野は連名で、五稜郭と弁天台場へ降伏勧告書をおくった。
 5月18日、蝦夷共和国軍は五稜郭を開城し降伏した。ここに、前年1月3日に始まった戊辰戦争は終結した。闘争に明け暮れた新選組も、その後、二度と闘うことは無かった。
 

 函館の幸坂、右側一画・弥生町八番地が箱館病院の跡地

 小野は、明治2年6月、箱館を離れ、同年8月、古河藩栗橋の屋敷に幽閉される。二年後赦免されるが、再び歴史の表に立つことはなかった。幕末維新の京都から箱館まで七年に亘る日々を綴った膨大な「小野権之丞日記」も、終生、公表しなかった。
 この日記の原本は関東大震災で焼失し、他の人による欠落の多い不完全な写しが残された。小野の没後直ぐにでも原本が公表されていたら、歴史の真実に迫れたはずで大変残念である。一方、公表されずホッとした人たちも、かなりいたのだろう…。
 赦免後の小野は、東京神田の佐久間町でひっそりと生き、明治22年5月2日、この世を去った。享年72。東京青山霊園に眠っている。 (鈴木 晋)


   東京青山霊園、小野権之丞の墓
 (あかまつ坂通り・二種イ13号自9側至15側)

(次回は、曽祖父母の鈴木久孝・光子の物語です)


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