ザ・戊辰研マガジン

Vol.4

翻弄された飛び領地の人々(福島その1)

2018年02月02日 22:39 by norippe

 福島市内には、福島藩・二本松藩の他に、関宿藩・新発田藩・刈谷藩・足守藩の飛び領地、それに幕府領がありました。福島市という地域にこれまでの各地の藩の飛び領地があることに驚かされます。関宿藩は千葉、新発田藩は新潟、刈谷藩は愛知、足守藩は岡山と、本藩が遠く離れたところにあり、戊辰戦争が勃発した時の飛び地領民の戸惑いはいかがなものだったでしょうか。

 戊辰戦争時の福島藩は列藩同盟に加わったものの、あまり積極的ではなく及び腰でした。二本松城が落城するやいなや、福島藩だけで戦うのは無理とあっさり決めつけて開城宣言をしたのです。あとは割元に任せるから宜しく!と言って藩士たちは米沢へ逃げていってしまったのです。なんとも情けない話です。しかし米沢に着いた福島藩の一行は米沢藩に追い返されたのです。米沢が戦いに出向くので、福島藩はその先鋒を務めるように指示され、翌日、仕方なく福島に戻ることになりました。福島藩士がいなくなったその間、福島城下は暴徒化した農民が大勢いました。打ち壊しや窃盗が横暴していたのです。鍬や鎌、中には槍を持った農民たち約千人が、まるで一揆のような様相を見せていたのです。そんな中、少数の仙台兵が福島城下を進駐したのですが、農民に襲撃され二人が殺され、残る兵は福島の北方の瀬上方面に逃げたのです。福島藩士が戻ってからは城下での騒ぎは少し落ち着いたのです。


このあたりが新発田藩八島田陣屋があった場所かと・・・

 JR福島駅から3Kmほど米沢方面に行ったところに八島田という地域があります。ここに越後新発田藩の飛び地領、八島田陣屋がありました。福島へ兵を向けた米沢藩はその途中、この八島田陣屋の人々を米沢へ連行したのです。なぜ連行したかというと、越後新発田藩が列藩同盟を裏切ったためでした。しかし越後新発田藩からすれば裏切ったのではなく、最初から列藩同盟に加わるつもりはなかったということです。越後新発田藩は、戊辰戦争に際し、新政府の実態が薩長主導だとしても、そこから発せられる「朝廷の命」に従うのは当然だったという考えでした。戦火が奥羽、越後に及ぶ前に、新発田藩は新政府側に立って動き出していたのです。

 朝敵とされた会津・庄内の両藩を救済するために、仙台、米沢という強大な二つの藩が奥羽列藩同盟の結成を提唱すると、すぐさま長岡藩が加わり、さらに北越の六藩が加盟して奥羽越列藩同盟が成立しました。そこに新発田藩も名を連ねているのです。しかしその裏で新発田藩は、「加盟を断れば新発田を攻撃すると、仙台藩、米沢藩に脅されたからで、これは本心ではない」と新政府に弁明し、新政府もそれを了解していたのです。新潟の長岡城は一度落城しましたが、河井継之助の活躍で見事長岡城を奪還したのですが、薩摩藩の黒田清隆率いる新政府軍が新発田藩領の太夫浜から上陸作戦を繰り広げ、ふたたび長岡藩を討ち砕いたのです。新発田藩の手引きによる新政府軍の勝利でした。


新発田城の三階櫓

 福島藩士が住民を見捨てて米沢へ逃げ出したのがこの頃でした。新発田藩は、米沢藩にとって憎らしい敵となっていたのです。米沢から福島へ行く途中にある新発田藩飛び地領の八島田陣屋の前を、米沢藩兵が黙って素通りするはずがありません。八島田陣屋の住人、ひとり残らず全員が米沢に連行されたといいいます。連行された人々が、その後どうなったかは定かでありません。その後、列藩同盟は戦いに敗れ、米沢藩は降伏しました。たまたま米沢と福島の間にあった飛び領地の八島田陣屋の人々は、気の毒としか言いようがありません。  
(記者:関根)

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