ザ・戊辰研マガジン

Vol.4

【連載】『次郎長と鉄舟から愛された男』 第4回

2018年02月02日 22:38 by norippe

[五郎、九州へ旅立つ]

 1874年(明治7年)日本は台湾に本格的な制圧をかけた。清国は日本の軍事的侵略行為であると強く非難したのである。 国内では清国と戦争になるのではと大騒ぎ。そんな中、五郎は「清国討つべし!」と憤慨し九州福岡に渡ったのである。
 博多で五郎は、戊辰戦争で磐城平城を攻撃した薩摩藩の小隊長だった鮫島高朗と知り合い、父母妹を捜している旨を伝えた。同情した鮫島は陸軍少将の桐野利秋を紹介し、その紹介状を持って鹿児島の桐野を訪ねた。桐野と言えば知る人ぞ知る、あの「人斬り半次郎」、旧名を中村半次郎。会津藩降伏後の鶴ヶ城開城式では、城の受け渡し役を務め、会津藩士に親身に接して男泣きに泣いたという情の厚い男であった。しかしその後の西南戦争では壮絶な戦いのもと討死したのである。


会津鶴ヶ城開城式風景
中央が会津藩主松平容保 右端が中村半次郎(のちの桐野利秋)


  その頃、日本政府は大久保利通の粘り強い努力の結果、日清交渉は急転直下妥結したのである。 それを知った五郎は期待が外れ愕然とした。しかしその後、鹿児島県庁から呼び出しがかかり、何があるのかと心配して行ってみると、旅費として金一封が渡されたのである。これは五郎にとって棚からぼた餅であった。 鹿児島で五郎はかなり優遇されたのである。
  貰った金で天草や長崎などを回って帰路についたが、東京に帰るやいなや、警視庁の拘引状が待ち受けていたのである。 日清交渉問題で過激な発言を続けたことによるものなのか、はたまた桐野利秋と接触したことが悪かったのか、30日間牢獄にぶち込まれたのである。

 刑期を終えてから五郎は、「父母妹探しをおろそかにしていたから罰が当たったんだ。」と深く反省したと同時に、ふと哀愁の念が沸き立ち、兄を誘って久しぶりに故郷の磐城の平に戻ったのである。 そして磐城平城を尋ねた時、五郎が詠んだ歌がある。 「吹く風は 問えど答へず 菜の花の 何処やもとの 住家なるらん」 これはやがて歌人となる五郎が初めて詠んだ歌である。 五郎が見た磐城平城の光景は、昔と変わり果て、城跡には城も家臣の家もなく、ただ菜の花や牛の餌になる飼葉が生い茂り、城の形相を成さない平城となってしまった。といった内容の歌ではないだろうか。

 現在の磐城平城跡地は民間の手に渡り、マンションや家が建ち並び、かろうじて僅かの石垣と内濠の丹後沢池が残るだけとなっている。
  平成28年、この磐城平城跡地をいわき市が所有する動きがあり、地元の市民団体がこの城に模擬の櫓を建て、夜にはライトアップをするなどをして、いわき市にもお城があった事をアピールするイベントが盛んに行われている。


磐城平城跡に建つ三階櫓(模擬) 現在は撤去されている

  故郷で半月程過ごした五郎は、再び奥州各地を探索しつつ、藩校時代の友人である江正敏を函館に訪ねた。 そして北海道奥深くまで訪ねてみようとしたある日、五郎は突然喀血したのである。 幸い、江の手厚い看護によって回復に向かったが、この酷寒の地では再び喀血するかも知れないと言われ、仕方なく東京に戻ったのである。 この年、1877年(明治10年)の2月、西南戦争が勃発して西郷隆盛そして桐野利秋が討ち死にするのである。
(記者:関根)

<続く>次回は「清水の次郎長との出会い」です

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