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幕末有名人終焉の地(1)

2017年12月05日 13:58 by hidamarikun
2017年12月05日 13:58 by hidamarikun

【吉田松陰終焉の地を散策】

幕末有名人の終焉の地と題して、今回は吉田松陰が最後をとげた伝馬町牢屋敷を歩いてみました。



■伝馬町牢屋敷概要

伝馬町牢屋敷は現代における刑務所というより、未決囚を収監し死刑囚を処断する拘置所に近い性質を持った施設
東京都日本橋小伝馬町
(現在の日比谷線小伝馬町駅周辺)
2618坪(約8639平方メートル)の広さ
※現在は、公園と老人ホームがある
吉田松陰を始め幕末の国粋思想家は小伝馬町牢に置かれ、牢内で斬首されており、小塚原刑場は遺骸の取り捨てられた場所。
(小塚原には、処刑後の橋本左内や松陰の墓がある)



■牢屋敷内の構成

牢屋敷の責任者である囚獄(牢屋奉行)は大番衆の石出帯刀であり、代々世襲であった。その配下として40人~ 80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理をしていた。囚人を収容する牢獄は東牢と西牢に分かれていた。身分によって収容される牢獄が異なり、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣(御家人)、大名の家臣、僧侶、 医師、山伏が収容されていた。 また独立の牢獄として揚座敷が天和3年(1683年)に設けられ、御目見以上の幕臣(旗本)、身分の高い僧侶、神主等が収容された。身分の高い者を収容していたため、ほかの牢より設備は良かったようである。 大牢と二間牢には庶民が一括して収容されていたが、犯罪傾向が進んでいることが多かった無宿者が有宿者(人別帳に記載されている者)に悪影響を与えるのを避けるため、宝暦5年(1755年)に東牢には有宿者を、西牢には無宿者を収容するようになった。また安永5年(1775年)には独立して百姓牢が設けられた。 女囚は身分の区別なく西の揚屋に収容された(女牢)。収容者の総数は大体300~400人程度だったようである。

■牢内の慣習
牢内は囚人による完全自治制が敷かれており、牢屋役人ですら権限の及ばない世界であった。また、幕府が指名した牢名主を頂点とする厳然たる身分制度が敷かれており、平囚人には牢内で体を伸ばす権利すら与えられていなかった。食事は1日朝タの2度。玄米5合(女囚は3合)と汁物が支給された。漬物は牢内でこしらえていた。
牢内の人員が増え、生活するのに支障をきたすようになると「作造り」と称する殺人が行われた。主に牢内の規律を乱す者、元岡っ引や目明し、いびきのうるさい者、牢外からの金品による差し入れのない者などが標的にされた。暗殺後は「病気で死にました」と届け出て、特に咎めが来ることはなかった。
牢獄には窓がなかったため、風通しも悪く日光も入ってこなかった。栄養状態も悪くトイレも牢内にあったため、内部の環境は非常に劣悪であった。医師はいたが、いい加減な診察しか行わなかったため、飛び火や疥癬を主とする皮膚病に罹患する者が後を絶たず、主人や親を傷つけた者(逆罪)以外で体を壊した者は溜に収容された。



■主な施設の説明

◆首斬場
ここで重罪人は首を切られ死刑になった。
吉田松陰もここで亡くなった。現在の安楽寺と十思公園の境のあたり。
◆拷間蔵
厳しく取り調べをした部屋。
◆玄関
百叩きという刑はこの玄関先で行われた。
◆穿鑿所(せんさくじょ)
厳しく取り調べをした部屋。
◆牢屋
どこの牢の部屋も外から見えるように格子になっていた。冬は寒い風が吹きぬけて寒
かったと思われる。

牢は大牢、二間牢、揚屋、奥揚屋、揚座敷の5種類があり、これが東西にあって、それぞれ「西大牢」「東大牢」などと呼ばれていた。右側(敷地の北側)は高い塀で区切られた囚人達の居住区域である獄舎が建ち並んでいる。百姓、町人は大牢に人れられた。二間牢は間ロ4間、奥行3間の24畳で主に無宿人が収容された。東揚屋は流罪を申し渡されて船待ちをする罪人、西揚屋は女囚が収容された。奥揚屋はお目見え以下の武士や僧、神官が、揚座敷には身分の高い武士、高僧などが収容されていた。
こうして牢屋の中まで身分制度がしっかり根付いていたようである。



■おさらい

大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られた松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。
享年30(満29歳没)
獄中にて遺書として門弟達に向けて『留魂録』を書き残しており、その冒頭に記された辞世は“身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”。また、家族宛には『永訣書』を残しており、こちらに記された“親思う心にまさる親心けふのおとずれ何ときくらん”も辞世として知られている。
※吉田松陰は、全科五犯らしいね。自白って…‥

■現地散策の感想として
心霊スポットとされてはいるが、鈴ヶ森よりはおとなしいと思う。(あそこは行きたくない)
牢屋敷跡地に老人ホームもどうかと思いますが、公園に処刑を知らせる鐘が存在し、真向かいには、慰霊のための延命地蔵及び寺がある。
なんとも異空間…‥でした。
※松陰の遺骨は、松陰神社にあり(世田谷だったかな?)その近くには何故か井伊直弼の墓がある。

                     東北支部 酒井

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