ザ・戊辰研マガジン

vol.2

翻弄された飛び領地の人々(いわき編)

2017年12月05日 21:26 by norippe

  江戸時代の大名が治める領地の中には「飛び領地」というのがあります。 今のように県や市や町村が境界線でひとつの塊で区切られているのではなく、藩が治める地域があちらこちらの離れた場所に領地があったりするのです。藩という言い方は明治になってから言われるようになったそうで、江戸時代の言い方は「領」だそうです。 藩=領地と言う事になりますか。

  それで飛び地の話ですが、私が住んでいるいわき市にもいくつかの飛び領地があります。国道6号線を平の街から福島原発のある双葉町方面へ向かった約4キロ程行ったところに神谷(カベヤ)と言う地域があります。そこに茨城の笠間藩の飛び領地がありました。陣屋があってそこには50人程の藩士や領民が住んでいました。現在はいわき市立平第六小学校が建ち、近くにはゴミ処理施設や田んぼに民家が点在する場所となっています。


神谷陣屋跡に建ついわき市立平第六小学校

 いわき市平のいわき駅裏には、幕末幕府のトップである老中職を務めていた安藤信正が藩主の磐城平城がありました。その磐城平城から目と鼻の先に笠間藩の飛び領地「神谷陣屋」があったのです。 お隣どうし、持ちつ持たれつで仲の良いお付き合いだったそうです。
ところが・・・
ところがです、、、
戊辰戦争が勃発し、磐城平藩は奥羽越列藩同盟に加わり幕府側に付きましたが、お隣の笠間藩の本藩は新政府側に付いてしまったのです。当然、神谷陣屋も新政府側に付く事になります。つまり、お隣どうしで敵対することになってしまったのです。友好関係を突然引き裂かれ、戸惑うのは領民達でした。神谷陣屋はまわりを敵である平藩に囲まれて孤立状態になってしまったのです。

 茨城にある笠間藩の本藩は、栃木の宇都宮城を背景に大鳥圭介率いる幕府軍と戦うのですが、なにぶん笠間藩の武装は旧式で、武士は陣羽織に袴、その姿に槍を持ち、足軽は火縄銃といった軍隊で、まさに昔の戦国時代。 それとは反対の幕府軍大鳥隊は西洋式の軍事訓練を受けた部隊で、笠間藩を含む近隣諸藩を圧倒したのです。 茨城の笠間藩本藩がそのような調子ですから、いわきにある神谷陣屋に強い戦力があるはずもないのです。

 新政府軍が茨城の平潟港から上陸して磐城平城に向かっているさなか、幕府軍援軍として上陸した純義隊・彰義隊らが、神谷陣屋の存在がとかくわずらわしく、穏便な態度で神谷陣屋に接する磐城平藩の態度に業を煮やし、強硬な態度で向かうことを主張したのです。平藩は仕方なく神谷陣屋を包囲し戦う姿勢を示しました。しかし、もともと仲が良かった両藩は戦う事もなく、神谷陣屋の藩士や領民は陣屋を立ち退き、陣屋から北に6キロ程離れた薬王寺村に退避したのです。
 しかしその避難先には今度は幕府軍の仙台藩・遊撃隊が押し寄せ襲撃したのであります。陣屋兵は薬王寺山門と畑に大砲を据え防戦するのです。薬王寺村の農兵も陣屋勢に協力して応戦したのですが苦戦をしいられ、神谷陣屋の人々は更に北にある八茎村へと避難したのです。 幕府軍は薬王寺村の農兵が陣屋勢に協力したことを理由に、薬王寺をはじめ付近の民家に火を放ちました。その被害は甚大でした。 八茎村は常磐道の四倉インターから西に1キロ程行った場所です。


薬王寺入口

  しかし平潟港から上陸した新政府軍は強力でした。磐城泉城、湯長谷城を落城に追い込み、破竹の勢いで磐城平城に攻め入りました。平城は堅守な城郭をもつお城なので、簡単には攻め入る事は出来ませんでした。しかし3度に渡る攻防戦でついに磐城平城は落城し、藩主や藩士は仙台へと落ち伸びて行きました。 それでようやく神谷陣屋の人々は避難から逃れられ、無事に神谷陣屋に戻ることが出来たのです。
神谷陣屋跡に建つ平第六小学校の体育館裏には、陣屋があったことを示す石碑が建っています。


いわき市立平第六小学校の体育館裏に建つ石碑
中央が笠間藩士が建てた石碑で神谷陣屋騒動の詳細が書かれています。

 

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