[磐城平藩に戊辰の戦火がやって来た]
福島県いわき市の隣の北茨城市に平潟港という港がある。決して大きい港ではないが、自然の入江を利用した漁港で、江戸時代には年貢米の積出港の役割を担う大変栄えた港である。また太平洋戦争時は海軍特攻艇の訓練場として利用され、港には今でもその特攻艇を格納していた洞窟が残っている。
現在の平潟港
新政府軍は奥州征伐の上陸地点をこの平潟港とし、ここから北上し磐城平城を落すべく進軍したのである。また人見勝太郎や伊庭八郎の遊撃隊や林忠崇率いる請西藩も、この磐城の地に上陸し新政府軍と一戦交えるのである。 仙台や米沢からの応援も含め、新政府軍に立ち向かう磐城三藩であったのだが、武器の能力の差、そして戦争経験のない東北諸藩には敵う術もなく、磐城泉城・磐城湯長谷城はあっさりと攻め落とされ、磐城平藩の居城である磐城平城での対戦となるのである。
天田五郎はもとの名を甘田久五郎。磐城平藩士甘田平太夫の五男として安政元年に生まれた。五郎の父は磐城平藩の勘定奉行だったが、この時すでに隠居の身であった。
新政府軍が磐城に攻め入って来た時、甘田家では五郎の兄の善蔵が出陣し、十五歳の五郎は年老いた父や病弱の母、そして幼い妹を守っていたのである。しかし戦いは城下に及んだ為、五郎らは平郊外の中山村に避難したのである。平から東に数キロ離れた場所であった。
戦争は激しくなり、五郎のもとには味方の敗報が伝わってくる。五郎は拳をにぎり、自分も戦場に行きたいという思いが強まり、また兄の善蔵が新田山の戦いで重傷を負ったとも既に討死したとの噂もあり、その真実も知りたいという強い念にかられるのである。 そんな思いが募り、父へ偽らざる自分の気持ちを正直に伝えたのである。 「物の役にも立たないかも知れないが、主君の為、磐城の為、はしくれとなって銃丸の一つも防ぎたいと思っております」 それに対して父は「その志しあらば心を跡へ残さずして、いさぎよく出陣せよ」と励ますのであるが、障子の外でそれを聞いていた母はひたすら涙を流すのであった。
「悲しいかな、兄はたしかに新田山の戦いに討死したとの噂もあり、昨夜見た夢にも兄が姿を見せたことは噂が誠なのかも知れない。さらに今また五郎よ、あなたとも別れたら私達はどうしたらいいの。父上は気丈にもあなたの出陣を勇ましと言ったが、心の奥は苦しきもあり、母の病はあなたの志しのあつきに熱も負けて快き方にはなったけれど、まだ起きる事もままならず、あなたに棄てられ悲しみが増せば力は落ちてしまう。父上もいろいろな事でとても老いてしまい、今にも矢玉が飛んで来たら三人はどうしたらいいのでしょう。只一人身を投じて忠義の誠をあかすにも、あなたはまだ部屋住の身であり、武士の道に立たぬという事もないので、母の為、妹の為、また父上の為にもここに留まって出陣は取りやめて欲しいのです。」 と切々と母は訴えるのであった。
しかし父の平太夫は母を優しくなだめ、出陣といってもすぐに戦場に出るわけではない。それに兄の安否も確かめなければならない。愛情を優先して忠義をないがしろにしてはならないと言い聞かすのであった。
現在の菱川橋
こうして天田五郎は15歳で元服し、兄の善蔵の妻の父、加藤覚左衛門が守備につく谷川瀬の陣へ出陣するのであった。
現在のJRいわき駅前をまっすぐ南に1kmほど進むと新川という川があり、当時はこの川が磐城平城の外堀の役目を果たしていた。この新川あたりが谷川瀬という場所で、ここに架かる橋では菱川橋の戦いがあったのである。
磐城平城は第一次攻防戦から第三次攻防戦まで粘り強く戦うのであるが、応援に来ていた仙台藩や米沢藩がいつの間にか姿を消し、平藩だけの防御となってしまい、最後は家老自ら城に火を放ち落城したのである。
瑞光寺
天田五郎は仙台に落ち延び、その後、戦いが終わって磐城に戻り小泉村(父母妹が避難した中山村の隣が小泉村)の瑞光寺に身をおくのだが、すでに両親も妹も避難先には居らず行方不明となっていたのである。 年老いた父や母、そして幼い妹を置き去りにしてしまった五郎には、後悔の念だけが強く残るのであった。
<続く>次回は[家族を探しに旅に出る天田五郎]
東北支部 関根
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